死者の国を引き寄せた

文字数 2,998文字

 2.

 裏通りも、少し入り組んだところに進むと瓦礫が散乱したままだ。落ちてきた空が潰した部分、何年前の出来事かは知らないが、それは積み上げられ、邪険に扱われ、死者たちはそれを組み合わせて作った屋根と壁の中に立ち、ゆらゆらと揺れていた。
 生者は死者のように徘徊し、生きている死者を襲った。棒やさすまたで突っつかれ、死者らが労働に駆り立てられていく。
 崩壊を免れた建物の窓からその様子を見下ろしているテスに、老人が話しかけた。
「その悪い言葉つかいは、自分の国を作りたかった」
 老人はタシと名乗った。あの男たちは自分たちの手を血で汚そうとはせず、テスを倉庫に閉じこめて、彼らの執行部員、汚れ仕事を請け負う人間を呼びに行った。
 その間に倉庫の錠を破り、オルゴにテスを救出させたのがタシだった。
 テスは窓辺の古い机に腰をかけ、肩から毛布をかけていた。胸の前で両手を交差させ、それぞれの手に毛布の端を掴むと、体にしっかり巻き付けて身震いした。
「本当は、彼自らが死者の国に歩み寄らなければならなかった。だが彼は死者の国を自らに引き寄せることを選んだ」
 テスは弱い光を宿す目をタシに向けた。老人は砂の詰まった歯車のような調子で続けた。
「悪い言葉つかいは死者を蘇らせ、働かせ、貧しい生者に看守の職を与えた。悪い言葉つかいが死んでも、死者は多くの生者に存在を認知されたため、消えずに残った。それに、生者たちのほとんどは、金づるになる私らが消えるのを望まなんだ」
「善い言葉つかいは……」テスは左の頬にタオルを当てながら尋ねた。「どうして死者たちを解放しなかったんだ?」
「そうする前に、殺された。生者たちが寝込みを襲った」
 部屋の戸が開き、テスとタシは身構え振り向いた。黒ずんだ壁の殺風景な部屋に入ってきたのは、キユとオルゴだった。
「怪我の具合はどうだ?」
 オルゴは寝起きのまま整えていない髪をして、テスのために濡らしてきたタオルを振って見せた。オルゴが窓辺に寄り、前に立つので、テスは頬に当てた生ぬるいタオルを離した。
「ふぅん……寝てる間に腫れはひいたようだが、痣になってるぜ。かわいそうによう。まだ痛むんだろ? 痛そうだぜ?」
 優しく気遣う言葉をかき消すように、昨日の男たちに投げかけられた言葉が思い出された。
『誰だってわかってるんだよ。言葉つかいの本性は人間じゃねぇってな。ケダモノめ』『誰の許可を得て二足歩行をしてやがる』暴行を加えながら彼らはそう言った。『何で俺たち人間サマがケダモノごときと約束しなきゃならねぇんだ』
 濡れタオルを受け取り、頬に当てながら、伏せたテスの目が今にも泣き出しそうに潤むので、オルゴは慌てた。
「おいおい」
 テスは、消えたオルゴの言葉を引き取る。
「悲しい……」
 多少はましになったものの、痛みは皮膚と同化して全身に貼りついていた。一番痛むのは顔と頭を庇った両腕で、こちらはへし折られる寸前だった。痛みは惨めな気分にさせ、惨めな気分は寒さを引き立てた。
「お前よう、どうして黙って殴られたんだ? 殴り返すこともできただろうよ」
 テスは寒さに体を強ばらせながら答えた。
「彼らは俺より弱いから……」
「はあ?」
「反撃したら、戦いになる。戦いになったら、殺さなければならない。そういうものだから……」
 タシは色褪せた灰色の目をオルゴに向けた。オルゴは顔を引き攣らせていた。目の前の純粋そうな青年の口から「殺す」という語が飛び出たことに、ショックを受けているように見えた。
「あたしたちは我慢できる」キユが二人に歩み寄った。「あなたが全部をあたしたちのせいにして、この人と逃げても、あたしたちは我慢できた」
「そんなことはしない」
「してもよかったんだよ。あたしたちは我慢するから。あたしたちは死なないし、生きている人間は自殺をするかもしれないけれど、もうそれもできないから。いつか生者が死に絶えて、あたしたちに対する観測者が消えれば、あたしたちも消える。それまでは、何があっても我慢する」
 テスは何とも返事をしかねて俯いた。一時の鐘が鳴った。死者たちは、キユもタシも、仕事をしなければならないはずだった。
 オルゴ。
 この人と一緒に旅をできたらどんなに楽しいだろう。一緒に歩き、一緒に乗り物に乗り、共に眠り、共に食事をし、見たことや聞いたことについて互いに話をし、問題があれば一緒に考えてくれる、話しかけることができる、笑いかけることができる、そういう相手といられたら、どんなに素晴らしいだろう。テスはつくづく思った。
「俺はもう、町を出る。親切にしてくれてありがとう」
 テスは感情を殺して、抑揚のない声で告げた。
 どうせあてのない旅なら、俺と一緒に来たらどうだ。そうオルゴに持ちかけられたのは、昨日、死者たちの隠れ家で寝る直前のことだった。テスは、そのオルゴの四角い顔をじっとよく見た。
「オルゴはもう、俺と一緒にいないほうがいい」
 彼もまた感情を殺し、努めて無表情を保っていた。厚い唇を動かし、口ごもる。
「でもよ……」
「危険なんだ。俺は言葉つかいだから」
「だからって」
 テスは首を強く振った。
「駄目だ。オルゴは家族のところに帰らなくちゃ駄目だ。心配して待ってる」
 オルゴは不満げだったが、何も言い返してこなかった。
 それから上着の内ポケットをがさごそし始めた。
「そうだ。お前、金持ってねぇんだろ? せめて」
「大丈夫。受け取れない」
「せめてこれくらいはさせてくれよ。お前は命の恩人だろ?」
「それならもう、十分に返してもらった。汽車賃を出してくれたし、汽車の中での食事代も……毛布も貸してくれた」
「でもよ」
「それに」と、遮る。「一緒にいられて嬉しかった……」
 真っ黒い孤独の波が押し寄せて、テスを呑んだ。この先に予想される旅がどのようなものになるか、黒さが予測を不能にした。テスは絶望しながら肩の毛布を脱ぎ、畳んで、机から下りて立った。
 キユがシャツの胸ポケットに手を入れ、何かをつまみ出し、テスに差し出した。
「じゃあ、これ持ってって」
 テスは大きく目を開いた。指輪だった。瞬きしながら首をかしげる。キユが受け取るよう促した。
「これ、白金だから、売ればお金になる」
「お金はいつかキユが必要になるかもしれない」
「そう……」キユは腕を動かして、指輪をオルゴの前に持っていった。
「テスが要らないなら、オルゴにあげる」
 オルゴはまごついていたが、キユの目がオルゴから指輪に、指輪からテスに動いたので察した。
「ああ」と返事をし、受け取る。「もらったはいいけど、俺には必要ないな。テス、ほらよ、俺からお前にやるぜ」
 テスにはもうこれ以上、好意を拒むことはできなかった。そっと手を差し出すと、オルゴがテスの掌に指輪を置いた。そうしながらテスの伏せがちな目を覗きこんだ。
「大丈夫か? もう一人で歩けるか?」
 テスは誰とも別れたくなかったし、オルゴやキユやタシも、そんなテスの気持ちを感じているようだった。
 この世界の人の心は荒んでいる。たまに優しい人や一緒にいたいと思える人に出会えても、こうして自分から別れなければならない。
 テスは何度も礼を言いながら、死者のねぐらを後にした。


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