君臨する預言者

文字数 4,601文字

 2.

 白い湯気の中で、テスはうなだれて立っていた。温かいシャワーが肩と背中を優しくほぐしていく。体を苛む寒さを今だけ忘れることができた。湯をたっぷり含んだ髪の先端に雫が生じ、膨らんで、支えきれないほど大きくなったところで垂れ落ちる。
 どこでもない所を見ていたテスは、ふと左の二の腕に目をやった。肘を上げ、腕から手首、そして指先までを観察し、右手で揉んでみた。体は黒くもなければ崩れさったりもしなかった。赤茶のタイルから突き出た蛇口に右手を動かして、栓を閉めた。湯が止まり、寒さが戻ってきた。
 浴室を出れば、脱衣所には乾いたタオルと櫛、服と下着が用意されていた。壁の高いところに細長い窓があり、朱色の光が差してくる。体を拭いて籠から服を取り、身に纏う。アルネカやリーユーが着ていた服のように、それは白く、テスだけが感じる寒さを和らげるには薄かった。震えを殺しながら髪をよく梳いて、白いゴムで縛る。脱衣所の戸を開けると、廊下でティルカが待っていた。
 ティルカは三十前後の言葉つかいの男だ。堅太りの体格で、がっしりしているが威圧感はなく、目の光は鋭さよりも、信仰を知る者の純粋さを感じさせる。よく笑い、大きな声で話す。リーユーによって引き合わされ、一目見たときに、テスはオルゴを思い出した。この世界で初めて自分の味方だと感じることができた存在。死者の町で別れたが、彼が世界のどこかで自分の無事を祈ってくれていることを思うと、どれほど心強いだろう。そして、彼は今、どこで何をしているのだろう?
「具合はどうだ?」
 ティルカは腕を組んで廊下をうろうろしていたが、テスが脱衣所から出てくると、腕組みを解いて寄ってきた。口は笑っているが、目は心配そうにテスの顔を窺っている。テスはその二つの目をじっと見返して、小首を傾げた。
「ずっとここで俺を待ってたのか?」
「当たり前だろ? 中で倒れたりしたら大変じゃないか。お前が出てくるのが遅いから、どうしようかと思ってたんだよ。痛むところはないか? ふらふらしないか?」
 地面に打ちつけた箇所には大きな痣が出来ていたが、死者の町で受けた傷ほどひどいものではない。落ちたら死んでもおかしくない場所から叩き落とされたことを考えると、こうして一人で立っていられるのも奇跡に近いほどだ。気を失う直前に体を包む大気のクッションを作ったのかもしれないが、よく覚えていなかった。
 テスは目許を緩め、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。俺なら大丈夫」
 二人は殺風景な廊下を渡り、裏口から建物を出た。
 白い砂の打たれた、花も木もない裏庭が広がり、連結された茶色い石造りの建物が三方向を囲んでいる。建物は五階建てで、正面の建物の屋上部分から、女たちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。洗濯物が干してある。よく目を凝らしたテスは、洗濯物の内の一つが自分の茶色いストールであるのを見て取った。衣服を洗い、干してくれた女たちの声なのだ。
 ここは神殿なのか、と、テスはティルカと顔を合わせたときに尋ねた。この街全体が神殿だ、とティルカは答えた。その中でも城門と大きな礼拝堂を備えたこの敷地は、神殿の、つまり街全体の中枢部で、アルネカが許可した人間しか入れないのだという。
 アルネカはこの街の救世主で、預言者なのだという。テスが中枢部に運び込まれたのも、アルネカがそうせよと言ったからで、その理由はアルネカの他に知る者はなく、アルネカが語ることもない。
「この街は何ていう名前なんだ?」
「名前?」
 二人は中枢部を守る城門に近付きつつあった。灰色の石組に、雲の影が重く垂れ込める。旗はなく、見張りも立っていない。気配を探ったが、言葉つかいの力は感じ取れなかった。
「俺は聞いたことはないな。ないかも……まあ、あるかも知れないけど、気にしたこともない」
 ティルカは振り向いて答えた。
 名前がない、なくても困らないということは、街の外と関係を持つ必要がないのだろう。はじめ、この街はテスの目からすっかり隠れていた。自給自足の術があるようだ。
「この街はいつからあるんだ?」
「さあ。俺が生まれる前からさ」
 テスが両目をじっと見つめるので、ティルカは後ろ向きに歩くことになった。
「アルネカ様は不老のお方なんだ」声に敬意が込められる。「まだ街に名前があった頃……四十年前かな……五十年前かも……街に災厄が降りてきた」
「どんな?」
「言葉つかい同士の抗争があったらしい。でもよくわからない。アルネカ様は多くは語らないんだ。ただ、その災厄から街を救ったのが言葉つかいのアルネカ様なんだ。とても恐ろしい災厄で……アルネカ様はご自分の目から光を拭い去られた。全てを見えなくして恐怖を克服され、災厄に打ち勝ったんだ」
 テスは頷いた。
 恐ろしい災厄を見ることが出来なくなり、主観と記憶によって平穏な都市を立て直したというのなら、アルネカの不老にも説明がつく。彼女は老いていく自分を認識できないのだ。だから若いままでいる。
「じゃあ、この街はアルネカ様の記憶のままの姿なのか?」
「そう。だけどそれだけじゃない。俺たち言葉つかいの主観が補って街の機能と完全性を保ってるんだ」
「そうか」
 だから自分はもてなされるのだとテスは理解した。アルネカ以外の言葉つかいは老いて死んでいく。だから、新しい言葉つかいに関しては招じ入れ、街の機能として取り込まなければならない。そういうことだろう。近いうちにティルカはそのことを、はっきりと告げるはずだ。
 言葉つかいのテスに言葉つかいのティルカがあてがわれたのは、そういうことを教えるためであり、もしテスが言葉の力を用いて(あらが)ったとしても、言葉つかいならそれを封じ込め、取り押さえることができる。
 だが、テスが抵抗する可能性を口にすると、アルネカが口にしたテスの安全性の(あかし)に異を唱えることになる。アルネカは、彼女の言葉に疑問を抱くことを許さない姿勢を見せていた。だからリーユーは、優等生的な態度を貫きアルネカに従った。その代わり、テスを見るその目で本心を訴えていた。絶対にお前を信用しないぞ、と。
 城門に入った。出口と入り口に木の落とし扉が設けられており、内部の壁には小さな松明が掲げられている。
 その松明の下で、テスはもう一人の言葉つかいと出会った。
「ヤト」
 ティルカが親しげに声をかけた。
 壁にもたれて二人を待ちかまえていたのは、黒髪を肩まで伸ばした、見たところ三十過ぎくらいの男だった。よく体を鍛えており、逞しく、目にはティルカと違って厳しさを感じさせる鋭さがあった。汗止めの布を額に巻き、その布が松明の光によって目に影を落とすので、一層鋭さが増していた。
 テスは気配で言葉つかいを見分けられるようになっていた。そしてヤトは、他の言葉つかい同様、物理武器を身につけていなかった。
 ヤトの一言目には、親しみは全く込められていなかった。
「そいつか?」
 と、テスに冷たい目を注ぐ。
「そうさ、テスって言うんだ。テス、こいつはヤト。俺の従兄弟なんだ」
 テスはヤトの反応を待ち、ヤトは冷ややかにテスの観察を続けた。
 結果、二人は黙って見つめあう形となった。
 ティルカが張り詰めた空気をほぐす。
「……まあ、仲良くしてくれよ」
「気に食わないな」
 ヤトが言い放つ。
「そんなこと言うなよ。テスをもてなすようにアルネカ様は仰られたんだ」
「それ自体に異存はない。それで、そいつをどこに連れて行くんだ?」
「第一礼拝所の前に空き家があっただろう。そこの二階に泊まらせて、一階に管理人の爺さんを寝起きさせる」
「話は通っているのか?」
「ああ」
 ヤトはようやくテスから目を離し、頷いた。早く出て行けと手で合図する。テスはヤトが望む通り、ティルカに連れられて門を出た。
 外の街の様子は、これまで通り抜けてきた他の街と変わりなかった。綺麗に石畳が敷かれ、トラムの線路がまっすぐ伸びているが、錆び付き、草が生え、トラムが通らなくなって久しいようだった。
 ティルカが第一礼拝所と呼ぶ場所は、大通りを横切り、一区画歩いた場所にあった。家一つ分ほどの広さの敷地で、巨石のかけらを組み合わせて作った原始的な祭壇と、燭台が据えられていた。
 テスの宿となる建物は、その向かいにあった。
 宿と、その隣の建物との間の路地の奥に、テスは二つの人影をみた。
 一つはリーユーだった。
 リーユーは何かを呟きながら、もう一人の人影の足首を蹴った。その相手は少女であるように見えた。小柄で、リーユーを前にじっと俯いている。テスは胸が痛むのを感じた。ティルカは二人に気付かずに、宿の戸を押し開けた。
 宿は普通の民家だった。三部屋分の窓が通りに面した、奥行きが浅く、横に長い作りだ。ティルカの後ろから覗き込むと、ちょうど正面の階段から、白髪の痩せた老人が下りてきた。
「ああ」と、ティルカが何も言わない内から頷いた。「ああ。片付いてるよ」
 そして、テスをろくろく見もせずに、一階の廊下の奥へ消え、間もなく戸を開け閉めする音と、鍵をかける音が聞こえた。
「排他的なのさ」
 振り向いたティルカが気まずそうに微笑んだ。
「じきにみんなお前になれるよ」
「あの老人に挨拶しなくてもいいだろうか」
「構わんさ。明日にしな」
 明日と言われ、今が何時なのかテスは急に気になった。こに来るまで時計の類は見なかった。
 二階の部屋に通されても、やはりそこに時計はない。
「食事はどうする。部屋で食べるほうがいいか?」
 開いたままの窓を閉め、ティルカが尋ねた。部屋にはベッドとクローゼットの他は何もない。テスはベッドに座って頷いた。
「食事のときは祈るんだ」ティルカは窓から離れ、テスの前に立った。「祈る神はいるか?」
「いるはずなんだ」
 テスはティルカの顔を見上げずに答えた。
「だけど忘れてしまった。神のことも、預言者のことも、俺は忘れてしまった。確かに覚えていたんだ。でも、もう思い出せない……」
 ティルカが答えないのでそっと目線を上げると、彼は同情を湛えた表情で、テスを見下ろしていた。テスは居たたまれなくなった。
「想像もできない……」ティルカはテスの視線を受けて言う。「辛いだろうな。俺には想像もできないよ。早く記憶を取り戻せればいい。俺はお前のことを祈るよ」
「記憶を取り戻してはいけないとしたら?」
「何でそう思うんだ?」心底から意外そうに目を丸めた。「誰かにそう言われたのか?」
 テスは答えないが、沈黙から察したようだ。
「そんなひどいことを言う奴は、悪魔だよ」
「悪魔?」
 テスにはキシャがわからない。
 悪魔と言われても、そうでないとは言い切れない。
「悪魔……」
「アルネカ様に縋ればいい。俺はアルネカ様に祈るよ。あの方は生ける預言者だ。全ての祈りを神のもとに届けてくださる」
 だがテスには、あの盲目の女を聖なるものとして崇める気持ちは起きなかった。人間離れした存在であることは、確かに認められるとしても。
「お前の服は、明日届けさせるよ」
 ティルカはたっぷりの同情と慈悲を込めて言い、部屋から出ていった。


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