生も死も壊れて

文字数 6,455文字

 ※

「お前」
 不意に声をかけられ、テスは街角で足を止めた。港と町の中心部を繋ぐ大通りで、家具の工房の前を通り過ぎるところだった。木造の建物からは籐をいぶす匂いが通りに滲み出ており、その煙が、奥の作業場と思しき場所から立ち上っていた。
 声の主はテスの真後ろにいた。
 汽車で同室になった中年の男だった。同行者が二人いる。
「ほら、やっぱりそうだ!」
 中年男は顔をくしゃくしゃにしてテスに笑いかけた。テスが汽車を降りて別れたとき以来、特に変わった様子は見られなかった。逞しい労働階級の男だ。着ている服は最後に見たときよりよれよれで、一層汚れている。旅行鞄は港湾作業員に乱暴な扱いをされたようで、角が潰れている。男はその鞄を肩にかけ直して歩み寄り、テスの肩を叩いた。テスはその力に親しみを感じ、緊張を解いて話しかけた。
「無事だったんだな」
「そりゃお前、こっちの台詞だよ。あんな何にもねぇ場所で汽車下りて、どうするつもりかと思ってたぜ。俺なりに心配したんだよ。どうだ、何かあったか? あの場所で」
 テスは首を横に振った。
「何もなかった」
「だろうな」
 男は同行者を振り向いて、手招いた。
「こいつだよ、こいつ。昨日話して聞かせただろ? 俺が今まで生きてて初めて出会った言葉つかいさ。名前は……何だっけ? また忘れちまったよ」
「テス」この男の同行者がテスに物言いたげな目線を投げ、決して近付いてこようとしないのを気にかけながら、テスは言葉を続けた。「お前の名は、オルゴ」
「おっ、覚えててくれたのか」
「あの人たちは?」
 二人ともオルゴと同年代で、やはりあまり裕福そうではない。
 その内一人が、テスとオルゴに完全に背を向けた。
 もう一人が遠慮がちに言い放つ。
「あまり言わないほうがいいぜ……言葉つかいだってこと」
 そして、もう一人を追うように、テスたちから離れていった。風が吹き、人もまばらな大通りにテスとオルゴが残された。
 何故彼らが離れていったかわからない、と言いたげな顔で首をかしげるオルゴにテスはもう一度尋ねようとした。
「さっきの人……」
 オルゴはどこか開き直った様子でテスを直視し、また笑いかけた。
「船でたまたま一緒の客室だっただけさ。それだけだ。でも、お前は命の恩人だろう? 一緒に歩こう。な? 二人で泊まる場所を探そうぜ。そのほうが安上がりだ」
 この世界に落ちてきて、初めてテスは喜びを感じた。人と一緒にいられる喜び、どんな形でも、どんなにささやかでもいい、人に大切にされた喜びだった。
「知っている人に会えて嬉しい」テスは目と口を綻ばせ、微笑んだ。「ありがとう」
「何が?」
「声をかけてもらえたのが嬉しい」
「そんなに喜ぶようなことか?」オルゴは大袈裟に両腕を広げた。「まあいいや」
「オルゴ」
 狭い裏通りに連れていかれながら、テスは隣を歩く大柄な中年男の顔を見上げて尋ねた。
「どうして旅をしているんだ?」
「家族のところに帰るのさ」
 テスにとって初めての町も、この男は慣れた様子だ。どんどん歩いていく。
「こんな俺にも、二十年も前にはいっぱしの男の夢があったさ。小銭をかき集めて家飛び出して、別の大陸に移って、結局その日暮らしを二十年だ。里心ついて郷里に手紙を出せば、兄貴の言うことにゃ母親が危篤だとよ。その返信を受け取ったのが先月の話さ」
「そうか」テスは心配になって目を曇らせた。「早く帰って、母親に、会えるといいな」
「間に合わないかもな。今だってどうだか」
 弦楽器の奏でるもの悲しい和音がテスの耳を撫でた。二人は話をやめた。老人の歌声が弦楽器の調べに乗った。オルゴが角を曲がり、歌声がくる道筋を逆に辿る。
 裏通りにちょっとした人だかりができて、その半円の真ん中に、壁を背にたたずみ歌う老人の姿が見えた。
 老人は、悲しい声で、悲しい歌を歌っていた。足許には灰色の帽子が置かれ、中に硬貨が数枚光っていた。
「少年が中年になって戻ってきたってのに――」聴衆の邪魔をしないよう、オルゴがテスの耳許でささやいた。「あのじいさん、二十年前と姿が変わってねえや。これは一体どういうことだ?」
 オルゴが喋り終わると同時に、曲が終わった。何人かの聴衆が立ち去る。一人だけ、帽子に硬貨を投げ入れた。
 次の曲が始まり、二人は耳を傾けた。それはおよそ次のような歌詞の、陰鬱なバラードだった。

「肉の痛みは精神において狂気と記述された
 疫病は風のように街を掃いた
 兵士らは弓によらず剣によらず斃れ 花は絶え
 死体漁りの私の上で 雷雲が咳払いをした――」

「覚えがある」身の底にざわめくものを感じ、テスは口走った。「どこかで、以前に……」
「夜の世界からもたらされた歌だな。俺も知ってるぜ。コブレンとかいう城塞都市で行われた悲惨な攻城戦の歌だ」
「コブレン」
 頭の中を鋭く流れ落ちる、光るものがあった。
「コブレン……」
 頭頂に、錐で刺し貫かれるような激痛が走った。テスは思わず眉をしかめ、目をつぶって頭を抱え、腰を曲げた。
「おい、どうした?」
「コブレン」
 オルゴがテスの二の腕を掴み、歩くよう促した。彼はテスを聴衆から離れたところに連れていった。テスは繰り返す。
「コブレン――」
「どうした、コブレンが何だっていうんだ?」
 激痛の錐は意地悪く脳の深くに入りこんでいく。オルゴがテスの両手に自分の手を重ね、頭を撫でる仕草をした。
 テスはその手のイメージを借りた。暗闇に回転する錐の持ち手を、オルゴの大きな手がつまむ。そのままスッと上に引き、テスの脳から引き抜く。
 錐が消え、激痛が止まった。
「何か思い出しかけた」
 奥歯に力をこめたまま唇を動かして、オルゴに返事をした。腰を伸ばし、両手を頭からはなし、下ろす。
「でも……大丈夫」
 バラードは続いていた。キシャの声が、あたかも真横にいるかのように、はっきり耳に聞こえた。
『おまえ、撃つのになんの躊躇もなかったな。かなり殺し慣れているだろう』
 違う、とテスは声に出さずに反発した。声は続いた。
『記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ』
 反発して何になるだろう。ゆっくり息を吐き出しながら、違わない、と訂正した。
 その通りなのだ。
 テスは聴衆に背を向けて、もう一度世界をよく見た。埃っぽい裏通り。家々は漆喰で塗られており、元は白かったであろう漆喰も、壁のひび割れに沿って黒く黴を生やしている。黴はひび割れていない部分にも、邪悪な手のように広がる。角に捨てられた布団には青と黒の黴が生えている。隣に生ゴミを捨てる大きな木箱がある。瀕死の犬に蠅がたかっている。石畳の間は砂が詰まっている。男が、シャベルでその犬を側溝に落としている。シャベルが石畳にこすれ音を立てる。
 テスをじっと見つめる少女がいた。歌う老人や聴衆たちから少し離れた場所にいて、椅子を持ち出し、机を置いて、その机の上や下に大小の鳥籠を並べている。どこか生気のない顔の、大きな目をした十三、四の少女だった。
 鳥だ、とテスは呟いた。
「どうした。見たいのか?」
 オルゴの問いかけに返事をせず、テスは鳥たちに、ひいては少女に吸い寄せられていった。
 緑色のハト。三角形に立った冠羽と太く短い嘴を持つ真っ赤なコウカンチョウ。腹が黄色で胸がピンク、首が水色で顔面が赤という派手な色彩のコキンチョウ。みな、首を後ろによじって翼の間に嘴を差して眠ったり、首を下によじって翼の下に嘴を差して羽繕いをしたりしていた。
 鳥たちは目を開け、または動きを止め、それぞれ顔をテスに向けた。いくつもの黒くつぶらな目がテスとオルゴを見た。
 この世界で初めて目にする生きている鳥に、テスは夢中になった。
「お兄さん、鳥、買う?」
 声をかけられ、テスは目線を上げて少女を見た。
 少女の居ずまいにはどこか違和感があった。
 全体的にずれているような、少女と世界がぴったり重なりあっていないような、少女が景色から浮き上がっているような違和感だった。
 テスの凝視をどう解釈したのか、少女は続けた。
「あたしはキユ。あたしを買ってもいいよ」
 そのときテスは、少女から呼気が感じられないことに気付いた。
「そういう商売もしてる」
 もう一度机の上の鳥籠に目を移すと、黄色い体、白いしま模様の入った黒い翼と尾羽、額に紺碧の羽毛を持つヒワが囚われていた。その鳥もまた同様の違和感を放っていた。テスは気がつき、驚きとともに口にした。
「この鳥、死んでる」
 すると、そのヒワは最期の呼吸をするように黄色い胸をへこませていき、目を閉じ、止まり木から滑り落ちた。
 キユと名乗る少女は無表情で死んだヒワを見つめた。目を上げ、テスの気まずい視線を受け止めると、どこか感慨深げに呟いた。
「お兄さん、言葉つかいだ」
 キユは凍りついた目をテスから逸らさぬまま、ほっそりした指で鳥籠を開け、愛情のない手つきでヒワの死骸を掴み出した。
 テスは尋ねた。
「どうしてわかったんだ?」
「死んだものを生かしたり、また死なせることができるのは、言葉つかいだけだもの。お兄さん、いいこと教えてあげる。死者は瞬きしないんだよ」
 たっぷり十秒、二人は見つめあった。その間テスは自分の瞬きを数えた。テスは二回瞬いたが、キユは瞬きをしなかった。それで、テスはキユに抱いた違和感を理解した。
「お兄さん、船で来たの?」
「ああ」
「じゃあ、気をつけたほうがいいよ。自分が言葉つかいだってこと、人にバレないように」
 そして左手で机のひきだしを開け、ヒワの死骸を入れて閉めた。
「この鳥は、あたしが逃がしたことにしておくね」
「どうして、言葉つかいであることを隠したほうがいいんだ?」
「恐がられるから」と、キユ。「言葉つかいはみんな、もともとこの世界の人じゃない。よその世界から落ちてきた。それに、言い伝えだけど、本来ヒトではないものが言葉つかいになるって信じられてるから」
「ヒトではない?」
「だけど、おじいちゃんたちは、言葉つかいがあたしたちを解放してくれるって信じてる」
 キユの目が、歌う老人がいるほうへ動いた。聴衆に隠れて姿は見えないが、あの老人がキユの祖父らしかった。
「この街はね、あたしたちの隔離所なんだ」
「死んだ人たちの?」
「そう。あたしたちは働く。儲けは生きてる人が没収する。あたしたちにご飯はいらないし、新しい服も、きれいな家も、別に欲しくないから。悪い言葉つかいがそれを始めた。彼によってあたしたちは裏切り者の墓から引き出された。その人は何だってできた」
 キユは空を指した。
「建物、みんな同じ高さで潰れてる」
 キユが指さす先で、空が狭くなる。高い建物が林立しているのだ。そして、釣り鐘塔で見たとおり、どれもある一定の高さで切り落とされたように、頭を揃えていた。
「かつてあの高さまで、空が落ちてきたよ」
「あの高さまで」
「あたしたちを監督する、一人の生きた看守が、あたしたちに同情して逃がそうとした。その裏切りに怒った悪い言葉つかいが力を見せつけた。空を落とし、建物を潰して、人を恐がらせた」
 キユとテスはお互いの無表情を見つめた。
「善い言葉つかいが来て、悪い言葉つかいを殺した。あたしたちは殺してほしくて善い言葉つかいに味方した。生きている人間に反逆したの。だから、生者は死者を憎んでる」
 その話を受け止めながら、テスは頷き、尋ねた。
「善い言葉つかいはまだいるのか?」
「ううん、殺されてしまった。この街に言葉つかいはいない。だから、あたしたちは、ずっとこのままでいる」
「キユは消えてしまいたいのか?」
「ううん、今はまだ……」気遣うように、祖父がいるほうに目をやった。老人は先ほどのバラードとは別の曲を歌っていた。
「もう少し、生きる……」
 (かね)を打ち鳴らして、逞しい男たちの一団が裏道に押し入ってきた。何事かと驚いた聴衆が、素早く数人が散ったのをきっかけに一斉に離れた。男たちは五人いて、二人が老人の前に行き、一言も声をかけることなく、何のねぎらいも気遣いもなしに帽子の中の硬貨を浚った。略奪を見るようであった。二人がキユの前にきた。残る一人は少し離れたところで彼らの働きを監督した。
「今日は一羽も売れてないよ」
 男が、キユに眉を片方吊り上げた。キユは付け足した。
「あたしも売れてない」
「鳥が一羽いなくなってるな」
 もう一人の男が低い声で脅した。
「逃げちゃったの」
「逃げただと? 今までそんなことは一度もなかったろうが」
「じゃあ今日が一度目なんだ」
 男は右の拳を左の掌に叩きつけ、暗に殴るぞと脅した。
「うまいこと言って、売り上げをちょろまかすつもりじゃないだろうな!」
 机の後ろに回り込み、キユを壁に突き飛ばし、ひきだしに手を伸ばした。キユは何か言おうとしたが、ひきだしが開くほうが早かった。ひきだしを開けた男は、黄色い小鳥の死骸を見て凍りついた。
「言葉つかいだ!」もう一人の男が上擦った声で叫んだ。逞しい中年の男がヒステリックに叫んでいる様子は、どこかグロテスクに見えた。「死者を殺せるやつがいる! 言葉つかいがいるぞ!」
 すぐに他の三人がやってきて、キユを取り囲んだ。大きく分厚い掌の一つが、キユのほっそりした肩を民家の壁に押しつけた。
「おいキユ、これは一体どういうことだ?」
 黙って様子を見ていたテスは、男たちに一歩踏み出した。
「俺だ」
 今まで気配を消していたテスと、一緒にいるオルゴに、男たちは初めて気付いたような顔をした。
「俺が言葉つかいだ」
 五人の男たち全員が、テスを怖い顔で睨みつけた。これまで様子を監督していた、とりわけ腕っ節の強そうな男がテスの前に進み出た。そして、敢えて小さな声で言った。
「この世に言葉つかいは必要ない。殺してやろうか」内緒話をするように、一層声を落とす。「お前は敵だ」
「俺に敵対する意志はない」
「そんなことは関係ない。問題は、お前が言葉つかいだってことだ」
「どうするつもりなんだ?」
 男は腰を屈めてテスに顔を近付けた。
「強い悪い言葉つかいを殺したのは、強い善い言葉つかいだった。言葉つかいは脅威だ。我々は善い言葉つかいも悪い言葉つかいも殺す」
「そんな……」テスは首を振った。「……お前たちは何だ?」
「新生アースフィアだ」
 そういえば、船で出会った言葉つかいがそんなことを言っていた。男は後ろの仲間たちを振り向いた。
「おい! 執行部のネサルが今日の船で到着してるはずだ。探してこい」
 二人が背を見せ、走り去った。
「お前らはちょっと来い」
「お前ら?」
 テスは一歩前に出て、自分の周りの人々、オルゴと、キユと、心配して近付いてきたキユの祖父とを見た。
「この人たちは関係ない。たまたま同じ場所にいただけだ」
「キユは鳥を隠した。お前を庇うためだろう」
「違う」と、テス。「俺が勝手にひきだしに入れた」
 男は、それを信じたというよりは、面倒くさくなったのだろう。
「だったら、一人で大人しく来るんだな」
 嫌悪と苛立ちに満ちた視線を浴びながら、テスは静かに尋ねた。
「そうしたら、この人たちに危害を加えないって、約束してくれるか?」
 男は答えず、テスの腕を鷲掴みにした。錠のかかった扉の前に連れて行き、腰にぶら下げた鍵で錠を開け、埃臭い倉庫の中にテスを引きずりこんだ。残る二人の男も後に続いた。
 音を立て、倉庫に内鍵がかけられた。裏通りには、あまりのことに立ち竦んでいるオルゴと、無表情のキユ、そして歌声と同じくらい悲しそうな顔をした老人が残った。
 間もなく倉庫の中から、人を殴り倒す音が聞こえた。

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