病んだ心の旅

文字数 8,161文字

 1.

 林檎の匂いで目を覚ました。目を開け、テスは見事な林檎の枝が窓を突き破り、室内に入りこんでいるのを見た。
 ここは木ですら空を目指したくない世界。キシャの言葉が思い出された。だが林檎の枝は、何か嫌なことを我慢したり、拒絶するような気配をまとっていなかった。
 テスは自分がどこで眠っているのか思い出せなかった。ここはどこだろう、と考えながらベッドから身を乗り出す。
 林檎に触れると、焦がれていた温かさが指に感じられた。林檎は水のように柔らかく、撫でると弾けた。どろりと粘り気のある液体が流れ出た。それは液状化した青空で、温かさの正体だった。
 吸いこんだ鳥たちの亡霊、あの沼のほとりで息耐えていた哀れな鳥たちが、テスの体内で青空に正気を失い激しく羽ばたいた。羽毛が舞い、テスの気管支を塞ぐ。テスは目覚めという武器で鳥たちに抵抗した。
 咳きこみながら布団の中で目を開けると、夢の林檎は消え失せており、窓は乾いた黄昏に汚されていた。窓の向こうは海で、陸地は見当たらない。テスは胎児のように体を丸め、布団の中で震え始めた。寝起きが一番寒いのだ。

 ※

 食事をとるべく、テスは船の食堂に向かった。二等客室、一等客室の別なく使われる食堂だ。食券を入り口で渡し、トレイと皿を取る。温かい紅茶。温かいスープ。温かい子羊の肉を一切れと、温野菜、焼きたてで温かいパン。それらを少量ずつトレイに乗せ、できるだけ窓から離れた熱と湿気のこもる場所に運んでいった。
 大テーブルの端の、酔った女の隣が空いていた。左右に人がいたほうがより温かくて良いのだが、女の左隣の客は、女と自分を隔てるように間の椅子に手荷物を置いており、座ることができなかった。他に空席は見当たらず、うろついている間にスープが冷めてしまうのも嫌なので、テスは女の右隣に座った。痩せぎすの、赤毛の女だった。顔は土気色で、猜疑心の強い、怨念のこもった目をしている。その目でテスを見た。正面から見れば、女は老けこんだ印象のわりに、さほどの年でもなさそうだった。せいぜいテスより少し年上なくらいで、三十には届いていないだろう。
 テスがスープを飲み始めても、女は負のオーラをこめた視線をテスから逸らさなかった。そして声をかけてきた。
「お兄さん、ご飯それだけぇ?」
 ひどいがらがら声だった。テスはスープ皿で両手を温めながら、伏せがちの目を向けた。視線は合わさぬようにした。
「……ああ」
「食べなきゃもったいないわよぉ。どうせ食券一枚でいくらでも食べられるんだから」
 酒は追加料金がかかるはずだ。女の周りの酒瓶と汚れたグラスの数で、羽振りの良さが伺えた。
 その割に、楽しそうでも幸せそうでもなかった。
 テスは温かさが体に染み渡ることを期待してスープに口をつけた。女の手許にも食事の皿があり、しかも料理がてんこ盛りなのだが、せいぜいふた口み口しか食べていないように見えた。
「食べきれないほどの量を欲しがるのは、戒律で禁じられているんだ」
「当てつけ!?」
 急に大声を出されて、テスはびくりとした。
「当てつけでしょ、今の! あたしの皿を見て言ったでしょ!」
「違う――」
 面倒なことになったと思いながら、テスは首を横に振った。午睡をして、食事の時間を遅らせたせいだ。船旅は今日で二日目だが、昨日は早めに食事を済ませたせいでこの女には会わなかったのだ。
「ただ、たくさん食べるんだなって思っただけだ」
 すると、女は金切り声を上げてテーブルを叩いた。
「あたしのこと太ってるって言いたいの!?」
「それも違う」
 むしろ痩せすぎだと思ったくらいだ。
 くすくす笑いがテスを取り巻いた。悪質な嫌がらせが成功したような、暗い笑いで目を光らせて、大テーブルの他の客たちはみなテスと女を見ていた。隣同士で肩を寄せあい、口を隠したり、テスを指さしたりして、悪口を言い始めた。
「見ろよ。新参の兄ちゃんが病人を怒らせたぜ」
 きっと彼らは、昨日テスが乗船した港町よりずっと遠くから来た旅客なのだろう。
「そういう……つもりじゃなかったんだ」
「あのさぁ、だったら口の利きかたに気をつけたら?」
 と、女はグラスのワインを呷った。
「でも別にいいもんね。食べたらすぐ戻すから、太らないし」
「戻す? 吐くってことか?」
「他にどんな意味があるのよ」声を低くし、女はまた怒鳴りだしそうな気配を見せた。「どんな意味があるの? ねえ、ほら、言ってみなさいよ」
 テスは黙り続けた。
「はあ……あんたに絡んでもしょうがないか。頭が悪くてわかんないみたいだし。教えてあげるけどね、かわいいボクちゃん、あんたが食べても食べなくっても、あの料理は全部、全部、ぜーんぶ、作りすぎで捨てられるだけなのよ。無駄なの。あんたが戒律とやらを守ろうが破ろうが、意味ないわけ。わかる? あー、もったいない」
 テスは黙り続けた。下だけを見て、冷めつつある食事をとるためだけに口を動かしていると、隣の女はぐっと身を乗り出してきた。
「怒ったの?」
「別に……」
「怒ってるじゃん。ねえ、怒ってるの? 怒ってんでしょ? なんで怒ってんの?」
「困ってるだけだ」
「困ってる? へぇ」
 女の声に安堵した調子が混じる。テスは困惑した状態から一つの答えにたどり着いた。
 彼女は混乱しているのだ。体全体から滲み出る雰囲気からして、もうずっと長い間、何年も、混乱し続けているのだ。
「そっかぁ。あんたもかわいそうにねぇー。あたしみたいなのの相手させられてねぇー」
 テスには女の存在以上に、彼女と自分を面白がって見る無遠慮な視線のほうが辛かった。
「嫌なんでしょ?」
「何が」
「あたしの話し相手させられてさ」
 テスは女の顔を見ずに、言葉を選びつつ、より一層ゆっくり返事をした。
「俺は、ただ……」
 ただ食事中にあまり喋るのが好きじゃないんだ、と言いたかったのだが、少し間が空くと女はまた金切り声をあげた。
「トロい! おまえ、喋るのがトロいんだよ! それとも何か都合が悪いから黙ってんの? えっ?」
 くすくす笑いが広がって、トロい、トロい、確かになぁとテスにもはっきり聞こえるようになった。どうやらわざと聞こえるように言っているらしかった。それで、テスはすっかり嫌になり、椅子を引いて立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
 テスは変わらずゆっくり答えた。
「ここにはいられない」
「逃げる気?」女はテスの服の袖をつかんだ。「あたしが嫌なの? ねえ、逃げるの? 自分だけ逃げるの?」
 そのまま服を引っ張って座らせようとするかのように、女は袖を掴み続けた。生地が伸びるのを感じた。テスは重ねて、静かに言った。
「とにかく、ここにはいられないんだ」
 彼女は狂おしいほどの切実さで相手にされたがり、言葉を求めていた。人々が言うとおり、何かの病気なのだ。
「あたしが嫌だからでしょ」女は、今までよりずっと大きく甲高い声で叫んだ。「あたしといるのが、そんなに嫌なのぉ!」
 それから、ばたりと大テーブルに突っ伏した。
 失神したように見えた。
 聞こえよがしの舌打ちや悪態が、冷たい視線と共に全包囲から刺さった。テスはまた、急に寒くなった。大テーブルの他の客たちも、まるで女を追いつめる狩りが終わり、興味を失ったとばかりにそっぽを向いた。
 女は失神していなかったのか、またはその状態から覚めたのか、伏したまますすり泣きを始めた。
「……大丈夫か?」
 背中に手を当てると、すすり泣く声が大きくなったが返事はなかった。大きな花瓶の向こう側に座る初老の男が、年相応の深みの感じられぬ顔で言い放った。
「兄ちゃんよ、お前がどうにかしな。お前が泣かせたんだからな」
 テスはそれに返事をせず、屈んで女の右腕を自分の右肩に回し、女の左腰に、自分の左腕を回して立たせた。
「歩けるか?」
 女はじっとうなだれて顔を隠しながら、意外にも従順に頷いた。彼女の荒れ狂う怒りや不安はまだ空中を漂っているかのようだが、それは彼女自身の中からは、少なくとも今は消えていた。抜け殻になったのだ。彼女は左手首に客室の鍵を通していた。一等客室の客だった。よく見れば身なりもいい。テスは一等客室が並ぶ側の廊下に通じる出入り口から、女を支えて食堂を出た。
 食堂を出た先はサロンになっていた。
 窓のない空間のあちこちで、小ぎれいな身なりの人々が、ローテーブルを囲んでソファに体を沈めている。大抵は静かな声で会話を楽しんでいるのだが、一組、やたらと大声で盛り上がっている一団があった。
「そうきますか。いやあ、そうきますか。これは参りましたねえ」
 六人の集団だ。うち二人がチェスをしており、生え際の後退し始めた男がしきりに対戦相手に愛想笑いをしながら頭を掻いていた。テスはチェスをしたことがなく、ルールも知らなかった。なので勝負の状況は全くわからないが、小男の対戦相手である四十がらみの男が必ず勝つことは確信できた。高級そうな生地のチュニックに身を包んだ偉丈夫で、足を広げてどっしり座っている。チェス盤を見てにやにや笑っており、口許には余裕があるが、目はどんよりと濁っていた。
 通り過ぎるとき、女の手がチェスの駒に当たって何本か倒した。三本の駒が、絨毯が敷かれたサロンの床に落ちた。
「待て」
 剣呑な声に呼び止められ、テスは足を止めた。振り返り、絨毯に転がる駒を見て、呼び止められた理由がわかった。
 拾い上げるべきだと考えたが、泥酔した女に肩を貸しながらそれをやるのは難しく思われた。すべての視線を受け止めて、テスは謝った。
「すまなかった」
「お前じゃねえよ」チェスをしていた小男が、別人のように、威圧を込めて言い放った。「その女だ。その女に謝らせろ」
 女は、意識はあるようだがぐったりし、なりゆき任せにして黙っている。
「この人は具合が悪いんだ」
「だったらここに置いていけ。謝る気が起きるまでそいつに付き合ってやろうじゃねえの」
「それはできない」
「なんだと?」小男が立ち上がる。「お前、逆らう気か?」
「この人を置いていったら、ひどいことをするつもりだろう」テスは静かに言い、首を振った。「そういうことは、できない」
 サロンの人々は、実に何気ない様子で会話を切り上げ、偽りの和やかさをまとってサロンから出ていこうとしていた。テスも、チェスの一団に背を向けた。
 テスの後頭部に、チェス盤が投げつけられた。チェス盤は大気のクッションに受け止められ、テスの頭の真後ろで静止した。テスは足を止め、もう一度振り向いた。その足のすぐ後ろに、チェス盤が落ちた。
 サロンに口を利く人はなく、静まり返った。柱時計が静かに振り子の音を立てていた。
「お前、言葉つかいか」
 声をかけたのは、小男ではない。一団の中心人物らしき偉丈夫だった。その男の口からは、笑みが消えていた。テスは油断せず、男から目を逸らさずに頷いた。
「そうだ」
「どこの支部に所属している」
「支部?」
 首をかしげると、誰かがわざとらしく、さも信じられないという調子で独り言を呟いた。
「協会に入ってない奴がいるのか」
 また別の者が言葉を続けた。
「困るんだよなあ、勝手にそういう商売されちゃあよ」
「商売ではやってない」
 テスは、女の腰に回す左腕に力を入れながら、悪いことは続く、という言葉を思い出した。
「そういうことは関係ないんだよ。協会の認定資格もないくせに勝手に力を使ってるのが問題なんだよ」
「……使えるから使ってた。資格がいるとは知らなかった」
「知らなかったで済むと思って――」
 偉丈夫が立ち上がると、話していた取り巻きは口をつぐんだ。
「どうやら、新人に礼儀を教えてやらねばならんようだな」
 取り巻きたちはどうだか知らないが、この男も言葉つかいなのだろう。
「まずは上下関係からだ。業界のしきたりを体で教えてやる。甲板に出ろ、小僧」
 テスはできるだけ申し訳なさそうに見えるように、男の目を見返した。
「今は、この人を寝かせてやってほしい」
 男は濁った目でテスの目をじっと見つめ返してきたが、屋内でことを起こすつもりはないようだ。「ふん」と鼻を鳴らした。
「明日、零刻をすぎたら第一甲板で待ってろ」
 その目を更にじっと見返してから、テスは返事せず、ただ一度浅く頷いて、男に背を向けた。サロンの出入り口に歩いていくと、背後から小男の声が追ってきた。
「逃げるなよ! お前、どこにいても見つけだしてやるからな! 隠れても無駄だってこと、覚えとけよ!」
 今度は振り返らなかった。
 女を部屋に連れていき、ベッドに寝かせ、靴を脱がせてやる。女はうつ伏せになってぴくりとも動かない。テスは布団をかけてやった。その布団が二等客室のものより厚く、ふかふかで、温かいので、羨ましく思った。
「どうしてあんな危険を冒したの」されるがままになりながら、女はようやくものを言った。「あたしを置いていけばよかったのに」
「そんなことはできない」
「どうして」
「必ず乱暴なことをするから」
「あいつら、あたしじゃなしに、あんたに乱暴なことをするって決めたみたいね。明日、あいつらは寄ってたかってあんたを痛めつけて、それでも気が済まなければ殺すわ。あんた、あたしにそれだけの値打ちがあると思う?」
「今は自分の心配をしたほうがいい。水を持ってくる」
「あんたは二等客室の客ね。一等客室では人に持ってこさせればいいのよ」
 水差しを探して客室をうろついていたテスは、その一言でベッドを振り向いた。
「誰にどうやって頼めばいい?」
「ねえ、あんた」
 女は枕に爪を立て、寝返りを打とうとしていた。
「名前を教えて」
「テス。お前は?」
「テスって本名?」
 心臓が強く脈打ち、テスは枕に広がる女の赤い髪を凝視した。女はテスに背を向けて横向きになっており、窓のほうを見ている。何故そんなことを聞くのか、テスには知りようもなかった。
「……ああ。そうだ」
「あたしはキシャ」
「なあ」
 テスは足音をあまり立てない歩きかたで、ベッドに近付いていった。
「キシャって、よくある名前なのか?」
 すると、女はベッドから飛び起きようとして失敗し、体をベッドの上で跳ねさせると、床に向かって身を乗り出して盛大に吐いた。
「あたしは特別なの! 名前だって特別よ! ありふれてなんかないわ!」
 屈みこんで背中を撫でてやろうとしたが、キシャは身をよじって嫌がった。
「すまなかった。同じ名前の知り合いがいるから」
「そいつはどこにいるのよ」
「聞いてどうするんだ?」
「八つ裂きにしてやる!」
 また吐き、そして元通り、ベッドにぐったりうつ伏せた。枕に顔をつけ、涙を流す。著しく情緒不安定だ。ベッドから離れようとすると、行かないで、とすすり泣きながら訴えた。テスはドレッサーの椅子に腰を下ろした。
「よくこんな奴に親切にしようだなんて思えるわね」
「俺は何もしていない」
「したじゃない。こんな重い女を部屋まで運んで」
「重くなかった」
 むしろ、この背丈の女としては軽すぎるくらいだった。嫌悪を感じるほどの軽さだった。そこまで軽くならなければいけなかった、女を取り巻く何らかの状況に対する嫌悪だ。女はすすり泣きを続け、テスは水の頼み方を聞き出すタイミングを逃し続けた。
「あたし、すごく重い荷物を運んだわ」
「ん?」
「子供の頃、昔……」
 鼻をすすり上げた。
「その頃、ママはあたしよりもお兄ちゃんといることを好んだわ。道を歩くとき、手をつないであげるのも、お話をしながら隣あって歩くのも、あたしよりお兄ちゃんを選んでた。あたしは二人の後ろを歩いたわ。ママのお手伝いで、軽い買い物の荷物を持ったの。軽いのを、ママが持たせた。でもあたし、重たいふりをして、引きずるように歩いたわ。重かった訳じゃないの。振り向いてほしかったの。ええ。重くなかった」
 テスは待ったが、なかなか続きを話さないので、質問しなければならなかった。
「それから?」
「ママは振り向いて、ママの買い物袋をあたしに持たせたわ。そしたら、それは本当に、すごく重かった。日が照ってて、暑くて、人や車がたくさん通ってた。今度こそ引きずるように歩いた。ママとお兄ちゃんは、どんどん先に行ってしまった。振り向いてくれたわよ。早くしなさい、早く来なさいって言うために。それから、わざとらしいことをしたらこうなるのよって、すごく冷たい目で言った。でもね、あたしはただ、一緒に隣を歩きたいだけだったの。小さかったのよ」
「そんなの、お前は全然悪くない」
「遅いのよ」
 キシャはテスに背を向けたまま両膝を腹に引き寄せ、布団の中で体を丸くした。
「もう遅いわ。あたしは悪いって思い続けた結果がこれよ。あたしは本当に、悪い、価値のない人間になってしまった」
「価値ってなんだ?」
 返事はなかった。キシャは眠ったかのように黙ったが、鼻をすする音が続くので、眠っていないとわかった。テスは立ち上がった。
「……水をもらってくる。すぐに戻る」
「相変わらずのお人好しだね」
 その鋭い声に、テスは立ち上がったまま動きを止めた。キシャは、泥酔しているとはとても思えぬ機敏な動作で起きあがり、右手で髪を後ろに払い、ベッドの上に座りこんだ。左手は、『亡国記』を抱えて胸に押しつけていた。
「キシャだな。本物の」
「そうさ。で、おまえは一体何のつもりだ? 戦う気か? 言葉つかいの力を甘く見ているようだな。ましてあの男はおまえよりずっと熟練だ」
「わかってる、でも」
「この女を見捨てていけばよかったんだ」
 テスはまた、首を横に振った。そうする度に、悲しい顔になっていくのが自分でもわかる。
「……まあ、おまえなら、やり直せたとしても繰り返すだろうな」
「なあ、キシャ、もし知ってたら教えてほしい」
「何だ」
「俺がいつも寒さに耐えなければならないのは、言葉つかいの力を得た代償だろうか」
 キシャはあきれ果てた様子で溜め息をついた。
「明日に役立つことを聞くかと思いきや、そんなことか。知らないな。そうなんじゃないのか? で、何でそんなことを気にする」
「さっきの男が何を失ったか気になった」
「他人のことは放っておけばいい」
 テスはベッドから離れ、窓辺へと歩いた。白く泡立つ波と黒い海を、天が弧を描いて包んでいる。空はどこにいても、いつまでも黄昏だ。太陽はどこにもない。
 キシャの言うとおりだ。倦み飽きた世界は滅ぶ。
「寒いのは辛い」テスは窓に手を触れ、目を伏せた。「でも、あの男はもっと大きな代償を払ったんだ。人として大事な何かを。それを思えば、俺はこの程度で済んだ」
「もともとああいう人間性かも知れないぞ」
「……そうかも、しれないな」
 いずれにしろ、テスはこれからも失い続ける。記憶を失うのだ。失うべきでないものがきっと、自分の中にあるのに。
 半月刀の柄頭、そこに彫られた名を見つめる。
『アラク』
 この人のことを、できれば思い出したかった。その名がもたらす温かい気持ちを失いたくない。何より、完全に思い出せず、その名がいかなる感情ももたらさなくなった時、自分はそのことで嫌な気分にはならないだろう。何とも思わないはずだ。それが嫌だった。
「キシャ。記憶を失って――」窓に映るキシャの影が、テスを見ていた。「本性を知ることで、人はどうなる?」
「神に近付く」
「じゃあ、どうして全ての人が神に近付いていかないんだ? 人は神から遠ざかりもする。そうさせる力は何だ?」
 テスは海と黄昏の彼方に遠い目を向けて、返事を待った。答えはなかなか返ってこなかった。
 そっと肩越しに振り向くと、女はキシャであることをやめ、あの書物も失われ、蒼白な顔でベッドに横たわっていた。歩み寄り、呼吸を確かめた。ちゃんと生きていた。


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