アルカディエーラ

文字数 4,793文字

 1.

 荒野に一人取り残されて以降、テスが他人の姿を目にしたのは、丸一日歩き続けて眠り、また目を覚ましてからのことだった。ジープの走行音で目を覚まし、それが離れたところで停車すると、テスは赤土に手をついて起きあがった。
 テスは丘の斜面を遮る木立の手前で寝ており、ジープは斜面の下にいた。そこにはテスが寝る前に熾した焚火の跡が残っており、ジープから下りてきた四人がそれを取り囲んで議論を始めた。後からもう一台、ジープがやってきて、三人下りてきた。彼らは七人で議論を続けた。
 寒さで震えながら、何故、寝ている間に焚火から離れてしまったのだろうとテスは考え、思い出した。寝ているさなか、一度妙な気配で目を覚まし、焚火の中から燃え盛る人が折り重なりながらわらわらと四人くらい出てきて、テスを火の中に引きずり込もうと、または単に助けを求めてか手を伸ばすから、やむなく移動したのだ。
 まさかそんなことがあるはずない、とテスは考えた。だが現にテスは寒くて仕方がないにも関わらず焚火から大きく離れて木立のそばにおり、そしてそれは幸運だった。ジープの人々の様子は殺気立っており、不用意に近付いたり、声をかけるのは憚られた。それに加えて、彼らはテスが乗っていた機関車の次の停車駅である町から来たのだろうが、何のために来て、今野宿の痕跡を調べているのかと考えると、不穏に思えるのだった。
 テスは木立に身を隠した。
 木立の向こうには、鋭い三角屋根の教会堂があった。
 そして、更にその向こうには、盛り土の上の柵に囲まれた、小さな村があった。

 ※

 村は打ち捨てられて久しいようだった。聞こえてくる音は、柵と柵の間、家と家の間を吹き抜ける風の音、そして、どこかで開いたままになっている戸板が風にあおられバタン、ギィ、バタン、と壁にぶつかる音ばかりで、人が生活している音も臭いもなかった。
「律法が霊的なものであることを、わたしたちは知っています」
 ところが、風に乗って女の声が聞こえた。
「しかし、わたしは肉の弱さをまとった人間で、罪に売り渡されたものです」
 テスは声がしたほうを振り向いた。村と教会堂の間も木立で遮られており、声を辿って木々の中に入っていくと、女の声に足音も加わった。
「私は自分の行っていることが分かりません。なぜなら、自分が望んでいることはせず、かえって憎んでいることをしているからです――」
 足音をたてぬよう細心の注意を払いながら、テスは木々の合間を縫い歩いた。少し進むと、影が薄れ、木々の向こうが見渡せるようになった。
 そこは教会堂の裏手の墓地で、聖職者の衣に身を包んだ一人の女が、手にした本を読み上げながら墓の間をゆっくり歩いていた。
「――そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに住んでいる罪なのです。わたしは自分のうちに、すなわち、わたしの肉のうちに、善が住んでいないことを知っています。善いことをしようという意志はありますが、行いが伴いません。わたしは自分が望む善いことをせず、望まない悪いことをしているのです」
 夕日を浴びるその女の髪の輝きからして、その女も自分と同じ、暗緑色の髪をしているのをテスは見てとった。
「だが、もし、わたしが自分の望まないことをしているとすれば、それを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに住んでいる罪なのです……」
 女はパタンと音を立てて本を閉じた。そして、聖職者にふさわしい、柔和で慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべ、撫でるように墓の一つに手を置き締めくくった。
「わかりましたか? ガキども」
 聖女は前を向いた。そして、木立から出てきたテスを見た。テスが二、三歩歩み寄っても、微笑んだまま動かない。テスは意を決してその女のすぐ前まで歩いていった。聖女は中年で、化粧をしておらず、長い年月を夕闇の国の西日にさらされて過ごしたせいか、顔のあちこちにシミが浮いていた。
「少し、教えてほしい」テスはためらいながら切り出した。「ここはどこだ?」
 聖女は慈悲深く答えた。
「墓です」
 そういうことを聞いたのではないのだが、彼女は続けた。
「愛されずに死んだ子供たちの墓です。私はその霊に、愛されずに死んだことについて納得させなければいけません」
 テスはとりあえず頷いて、女に話をあわせた。
「聖職者として愛してやろうっていうんじゃないんだな」
 淑やかな口調で聖女は応じる。
「親の代わりに神を求めること、愛情に満ちた母乳を神に要求することは、神学ではありません」
 彼女は手にした本を胸に抱いた。その本が『亡国記』、見紛うはずのないあの大判の革表紙なので、テスは目を見開いた。
「キシャ、どうしてなんだ? いつものキシャと違う」
「キシャは、人間を衣服のように着るのです」
 女は何ら慌てず、また笑みも絶やさなかった。
「着られた人間が、着られたことに気付くことはありません。あなたが記憶喪失の度合いを深める度に、着られる人間の人間性が、より強く残るようになります」
「つまりキシャ、お前は何も変わってなくて、俺の認知の仕方が変わったっていうのか?」
「そういうことになります」
 考え込むテスに、聖女は更に言った。
「もしあなたが、そのように驚かなければならないほど、キシャの性質が前回会ったときより大きく変わっているよう感じられるのなら、何か非常に大切な、これだけは失くしたくないというような、己の天性に関わるほど重大な記憶を喪失したということでしょう」
「前回会った……サイアに憑依したキシャは、それまでのキシャと変わらなかった」
 ならば、形喰いを破った直後かその戦いのさなかに、キシャの言うよほど重要な記憶を喪失したのだろう。だがテスには、何かの記憶を喪失したということさえ認知できなかった。
 すると、教会の裏口の戸の奥から、よろめき歩く軽い足音が聞こえてきた。
「隠れてください」
 聖女が言う。テスは大気の力を借りて跳躍し、裏口の戸の庇の上でくるりと回転し、そこに着地した。
 神官の衣服に身を包んだ老人が出てきた。老人は、覚束ない足取りで聖女に歩み寄った。それから、「今」と、呂律の回らない口調で喋り出し、「今、誰か、今、誰か」と繰り返した。
「今、誰か来なんだか」
 聖女が答えずにいると、老人は墓に手をつきながら、更に、緑の髪の聖女へと近付いていく。
「アルカディエーラ、アルカディエーラ、今……」
 そして、十分に距離が縮まると、腕を伸ばして聖女アルカディエーラの胸を撫で回し始めた。
 アルカディエーラはその手を邪険に払いのけると、うっとりするような柔和な笑顔のまま、老人の僅かに残った真っ白い後ろ髪を鷲掴みにし、顔を上げさせた。
「何かご用ですか? カス」
 腰の曲がったその老人は、庇の上で伏せるテスに背を向けているため、テスに彼の顔は見えなかった。だが怯えているはずだった。
「アルカディエーラ、人が……」
 アルカディエーラは微笑みながら、膝を上げ、老人の顔面を膝頭に叩きつけた。老人は初め声も上げなかったが、アルカディエーラの服が鼻血で染まるほどその行為が繰り返されると、くぐもった苦悶の声を上げるようになった。
「今日はどの歯をへし折ってほしいのですか? クズ」それから、老人の頭をまた上げさせて、腕を動かし、強引に左右の様子を見させた。それから、実に優しそうに続けた。「妄言ばかり言っていないで、引っこんでなさい、白痴」
 老人は血まみれの顔で、よろめき、苦しげに呻きながら教会堂の中へ戻っていった。裏口の戸が閉まると、テスは庇から飛び降りた。アルカディエーラは完璧な笑顔で、テスが下りてくるのを待っていた。
 テスは迷いながら口を開いた。
「あの人は認知症なんだ」
「いいえ」とアルカディエーラ。「認知症が始まる前から、どうしようもない色ボケでした」
「だからって――」
「あれは私の父です」おっとりと遮る。「私が幼い頃から、私を性の対象として見てきた倒錯者です。ああした扱いを受けるのは、彼の自業自得なのです」
 彼女が語る神学は、彼女自身の親への恨みに由来するものだろうとテスは考え、また口を開いた。
「さっきの話だけど、もし神さえも愛さないなら、愛されずに死んだ子供たちの霊は誰が救うんだ?」
「この子たち自身です」
 アルカディエーラは白い石の墓標を一瞥した。
「神に愛されたいのなら、まずは自分自身を愛さなければなりません。何故だかわかりますか?」テスの答えを待たず、続ける。「神は、全ての人間を価値ある尊いものとして作りました。神に失敗作はあり得ないのですから。ところが、自分自身を愛さず、そして全ての他人を愛さぬとなると、それは神に失敗作があると言っていることになりませんか?」
 テスはアルカディエーラが老人に与えた仕打ちを思い出し、どの口が言っていると思ったが、黙っておいた。アルカディエーラは更に続けた。
「誰しもが、そして己もまた、神の無数の側面の一つ、神の天性の一つ、神の一欠け、神の一しずくであるのですから、誰もが己自身を認め、愛さなければなりません。己の内の神を愛することによって、神に己を愛させなければならないのです。そういうわけで、神を愛し尊ぶのなら、まず自分で自分をよくする努力をしなければなりません」
 それから彼女はいきなり『亡国記』で墓を叩いた。
「いいですか? 愛とはかくも厳しいものなのです。たかだか親から愛されなかったくらいのことで、ガタガタ抜かしてはいけません」
 忌まわしい、嫌な影が、二人の上を飛んだ。テスは鳥肌を立てた。真っ黒い、翼あるものが、咄嗟に見上げた空を舞っていた。
 それは鳥に見えるが、正しい鳥ではないということがテスにはわかった。
 化生とも違う。気配でわかる。
 言葉つかいがいる。
 あれは、その使いだ。
 テスは走って墓地を走り去り、小さな教会堂をぐるりと半周してその玄関口に来た。前庭から、丘の下を一望できた。影の鳥が、丘の下のジープの一団へと向かっていき、消えた。
 七人の男たちが、教会堂を目がけて丘を駆け上ってくる。
 やはり自分が狙いなのだと、テスは認めた。木立の向こうの低地にいる彼らからは、まだテスの姿は見えていないはずだが、確かにテスがいることを、鳥越しの視界によって知っているはずだ。テスを殺しに来たのだ。言葉つかいである彼らは、その位置からでもテスへの攻撃を開始できるはずだ。だがアルカディエーラがいるから控えているのだろう。
 アルカディエーラが追いついて来て、テスの横に並んだ。テスは尋ねた。
「全ての他人を愛さなければならないなら、こういうときどうするんだ?」
 アルカディエーラは聖女の微笑で優しく答えた。
「皆殺しになさい、ぼけなす」
 思わず目を丸くするテスに、彼女は重ねて言った。
「いいですか? あの人たちは、あなたを卑しめ、あなたを認めず、あなたの命を奪うために来た人たちです」
「他者もまた神の一しずくなんじゃないのか?」
「寝言は寝てからほざきなさい、ど阿呆。人の姿をしている内は人です。いいですか?」アルカディエーラは微笑みながら首を傾げた。「真に敵を尊ぶことができるのは、人ではなく、所詮神だけです。そのことで、また、敵の命を奪うことで、自分を責めてはいけません」
 そしてテスを見るのをやめ、アルカディエーラは丘を駆け上ってくる男たちの姿を見据えた。彼らは既に木立にたどり着いていた。
「敵を見なさい。現実逃避をしてはいけません。気取り澄ましたことを言う前に、まずは己の人生を生きるのです! 全身全霊で!」


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み