鳥たちは消えた
文字数 2,288文字
1.
寝台つき客車の窓は、終わらない夕暮れによって茜に塗られていた。その窓に、男の顔が白くぼんやりと映った。逞しい体つきをした中年の男だ。顔は髭に覆われ、服は垢と土で汚れていた。男は外を見るのをやめて、車内に目をやった。
もう一人の乗客が、固いベッドの上で膝を抱えていた。
細い体つきをした青年だ。光沢のある暗緑色の髪が、壁に据え付けられた天籃石 の白い光を跳ね返している。後ろ髪は肩の下まで伸ばして一つ結びにしているが、前髪は眉の上で短く切り揃えている。目は虚ろで、心の奥深く、または世界のどこか遠くを見ている。夜の国を。または太陽の国を。たたん、たたんと規則正しいレールの音に呼吸を乗せ、気配を消している。
青年は褐色のストールと灰白色のマントを持っていたが、それらを脱ぎもせず、更に毛布を二枚、体に巻き付けていた。一枚は青年のベッドにあったもので、もう一枚は男のベッドにあったものだった。
「おい」
男が自分のベッドに腰掛けながら声をかけると、青年の目に光が戻った。茶色い虹彩をもつ目が、ゆっくり動いて男に向けられた。青年の注意はここにあるが、やはり、意識はどこか遠くにあるのだと目でわかる。
「そろそろ毛布を返してくれないか?」
青年の目に、落胆と、弱々しい抵抗が宿った。言われた意味を吟味するように、じっと目を伏せている。返事をするどころか、首を縦にも横にも振らなかった。
「頼むよ」男は続けた。「俺だって毛布なしで寝るのは寒いんだよ。それで、俺は今、眠いんだ。わかるだろ? お前はどうしてそんなに寒いんだ。異常だろう」
青年は、ゆっくりと首をかしげる動作をした。答えないのかと思うほど、長い間があいた。もったいぶるような動作で二度瞬きし、青年はようやく、血色の悪い、ひび割れた唇を開いた。
一語一語を確かめるように、ゆっくり喋る。
「わからない」
掠れた声だった。
「奪われた言葉に、関係していると思う……。この世界に落ちたとき、恐らくは、熱に関する言葉を失った……」
だが、どことなく少年っぽさを留めた声でもあった。
「……記憶と一緒に」
「そりゃかわいそうにな」
男は肩を竦めた。
「だが、毛布は返してもらうぜ。確かにあんたには恩がある。間一髪だった。あんたが来てくれなきゃ俺は『彩 喰い』にやれてた。でもおれはもう十分に借りを返したと思わないか? 汽車賃は出してやったし、飯も食わせたし、毛布は貸しっぱなしだし、俺はもう二回も寒い思いをしながら寝たんだ。なあ……」
青年は、長い緑色の睫毛でゆっくり瞬きしているが、目は男を見ていない。睫毛の影に覆われた目は、意識が半分ここにないことを物語っていた。男は哀願した。
「頼むぜ」
青年が身じろぎした。自分の行為に抵抗するように、嫌そうに体を動かして、のろのろと毛布を一枚手放した。掴んで男に突き返す。実に鈍くさい動作だった。この青年は二日前、男を助けるために戦った。その際見せた機敏さが、今はどこにも見当たらない。
「俺が悪いことしたみたいじゃないか」
男は自分のベッドから腕を伸ばして毛布を受け取った。
「あんた、えーっと、何ていったっけ? すぐ忘れちまうんだ。悪いな」
青年は呆然とした目つきのまま答えた。
「テス」
「そうだった。テス。明日、次の駅で降りるんだったな」
「ああ」
「何があるって言うんだ? 湿原しかない。湿原と、壊れた町だ」
再び間があいた。テスと名乗る青年は、呼気すら男に感じさせなかった。全存在を車輪の音と振動に同調させているようだ。たたん、たたん。
それからおもむろに体を動かして、ベッドに横たわった。胎児のように体を丸め、マントと毛布をいっそうきつくかき抱く。
「何もないと思う」
枕に頬をくっつけながら、テスはようやく答えた。
「だけど、何かあるかもしれない」身震いし、「わからない……」
目を閉じた。彼はたちまち眠りに落ちた。
次に目覚めたとき、汽車は湿地の中にあった。原野のただ中で、汽車は疲れ果てたように減速を開始した。駅にたどり着くと、何か文句を言うように、一度大きく揺れてから止まった。
汽車は、一人の乗客を吐き出した。黒い車両はテスの前後に果てしなく続いていた。テスは慎重に周囲を観察した結果、他に降りた客はいないと結論した。
茶色く枯れた葦の原を、テスは歩いていく。
風もないのに、彼はマントの前をあわせてぎゅっと体を縮めた。両手で口を覆い、息を吹きかけてこすり合わせる。地面は灰色にぬかるむ泥だった。やがて、葦の間の細い道に、石が転がるようになった。じきに舗道が現れた。荒れている。
行く手に沼が見えてきた。岸辺にガマを茂らせて、霧に霞む果てまで続いている。沼の上に風が吹いていた。テスは風の冷たさに首を竦めながら、足を止め、遠い眼差しを沼に向けた。
生き物は見えなかった。
水面を飛び交う虫もなく、跳ねる魚もいない。
ただ低木がさざめき、葦とガマが揺れるばかり。
「いない」ほとんど声にならない言葉を、テスは乾いた唇から放つ。「鳥たちは、消えた――」
彼は気付いていない。または気付かぬふりをしている。葦の茂みの間から、彼を凝視する眼差しがある。非情の眼差し。その瞳は金色だが、色彩を正しく照らす光源はない。この世界の空にはない。終わらない夕暮れ。ここは夕闇の領域。黄昏の国。
石と化し、泥をかぶった水鳥たちが、末期の悲鳴をあげるかたちで嘴を開いたまま、葦原に転がっている。
寝台つき客車の窓は、終わらない夕暮れによって茜に塗られていた。その窓に、男の顔が白くぼんやりと映った。逞しい体つきをした中年の男だ。顔は髭に覆われ、服は垢と土で汚れていた。男は外を見るのをやめて、車内に目をやった。
もう一人の乗客が、固いベッドの上で膝を抱えていた。
細い体つきをした青年だ。光沢のある暗緑色の髪が、壁に据え付けられた
青年は褐色のストールと灰白色のマントを持っていたが、それらを脱ぎもせず、更に毛布を二枚、体に巻き付けていた。一枚は青年のベッドにあったもので、もう一枚は男のベッドにあったものだった。
「おい」
男が自分のベッドに腰掛けながら声をかけると、青年の目に光が戻った。茶色い虹彩をもつ目が、ゆっくり動いて男に向けられた。青年の注意はここにあるが、やはり、意識はどこか遠くにあるのだと目でわかる。
「そろそろ毛布を返してくれないか?」
青年の目に、落胆と、弱々しい抵抗が宿った。言われた意味を吟味するように、じっと目を伏せている。返事をするどころか、首を縦にも横にも振らなかった。
「頼むよ」男は続けた。「俺だって毛布なしで寝るのは寒いんだよ。それで、俺は今、眠いんだ。わかるだろ? お前はどうしてそんなに寒いんだ。異常だろう」
青年は、ゆっくりと首をかしげる動作をした。答えないのかと思うほど、長い間があいた。もったいぶるような動作で二度瞬きし、青年はようやく、血色の悪い、ひび割れた唇を開いた。
一語一語を確かめるように、ゆっくり喋る。
「わからない」
掠れた声だった。
「奪われた言葉に、関係していると思う……。この世界に落ちたとき、恐らくは、熱に関する言葉を失った……」
だが、どことなく少年っぽさを留めた声でもあった。
「……記憶と一緒に」
「そりゃかわいそうにな」
男は肩を竦めた。
「だが、毛布は返してもらうぜ。確かにあんたには恩がある。間一髪だった。あんたが来てくれなきゃ俺は『
青年は、長い緑色の睫毛でゆっくり瞬きしているが、目は男を見ていない。睫毛の影に覆われた目は、意識が半分ここにないことを物語っていた。男は哀願した。
「頼むぜ」
青年が身じろぎした。自分の行為に抵抗するように、嫌そうに体を動かして、のろのろと毛布を一枚手放した。掴んで男に突き返す。実に鈍くさい動作だった。この青年は二日前、男を助けるために戦った。その際見せた機敏さが、今はどこにも見当たらない。
「俺が悪いことしたみたいじゃないか」
男は自分のベッドから腕を伸ばして毛布を受け取った。
「あんた、えーっと、何ていったっけ? すぐ忘れちまうんだ。悪いな」
青年は呆然とした目つきのまま答えた。
「テス」
「そうだった。テス。明日、次の駅で降りるんだったな」
「ああ」
「何があるって言うんだ? 湿原しかない。湿原と、壊れた町だ」
再び間があいた。テスと名乗る青年は、呼気すら男に感じさせなかった。全存在を車輪の音と振動に同調させているようだ。たたん、たたん。
それからおもむろに体を動かして、ベッドに横たわった。胎児のように体を丸め、マントと毛布をいっそうきつくかき抱く。
「何もないと思う」
枕に頬をくっつけながら、テスはようやく答えた。
「だけど、何かあるかもしれない」身震いし、「わからない……」
目を閉じた。彼はたちまち眠りに落ちた。
次に目覚めたとき、汽車は湿地の中にあった。原野のただ中で、汽車は疲れ果てたように減速を開始した。駅にたどり着くと、何か文句を言うように、一度大きく揺れてから止まった。
汽車は、一人の乗客を吐き出した。黒い車両はテスの前後に果てしなく続いていた。テスは慎重に周囲を観察した結果、他に降りた客はいないと結論した。
茶色く枯れた葦の原を、テスは歩いていく。
風もないのに、彼はマントの前をあわせてぎゅっと体を縮めた。両手で口を覆い、息を吹きかけてこすり合わせる。地面は灰色にぬかるむ泥だった。やがて、葦の間の細い道に、石が転がるようになった。じきに舗道が現れた。荒れている。
行く手に沼が見えてきた。岸辺にガマを茂らせて、霧に霞む果てまで続いている。沼の上に風が吹いていた。テスは風の冷たさに首を竦めながら、足を止め、遠い眼差しを沼に向けた。
生き物は見えなかった。
水面を飛び交う虫もなく、跳ねる魚もいない。
ただ低木がさざめき、葦とガマが揺れるばかり。
「いない」ほとんど声にならない言葉を、テスは乾いた唇から放つ。「鳥たちは、消えた――」
彼は気付いていない。または気付かぬふりをしている。葦の茂みの間から、彼を凝視する眼差しがある。非情の眼差し。その瞳は金色だが、色彩を正しく照らす光源はない。この世界の空にはない。終わらない夕暮れ。ここは夕闇の領域。黄昏の国。
石と化し、泥をかぶった水鳥たちが、末期の悲鳴をあげるかたちで嘴を開いたまま、葦原に転がっている。