契約終了

文字数 5,160文字

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 零刻の鐘より二時間前に、テスたちは目を覚ます。
 料理人たちのために大台所を清掃し、竈に火を入れておくのは見習いたちの仕事だ。最年長の見習い筆頭者が、年少の見習いたちを起こす。見習いたちは箒やはたきを手に跳ね回る。それは食事後に行われる戦闘訓練の、良い準備運動になる。
 掃除が一段落すると、午後に行われる教養科目の自習だ。歴史に数学、文学、神学、天文学、そして戦闘技能に関わってくる物理や運動力学、人体学。
 だがその前に、今月の清掃担当箇所である礼拝所を掃き清めなければならない。食事前に零刻の礼拝が行われるので、手早くきれいにしなければならない場所だった。とはいえ、礼拝所はいつもきれいだった。四つや五つの子供だって、この場所を汚しはしない。
 壁龕(へきがん)の蝋燭に火を入れたテスは、ふと困惑して己の少年の手を見つめた。ここは太陽の王国の礼拝所だろうか? それとも夜の王国の? それによって清掃道具のしまい場所や、清掃方法が違うのだ。礼拝所には窓がなく、空の色を確かめられない。
 外に出ようとしたテスは、いつの間にか初老の男が礼拝所にいるのに気が付いた。その男が扉の蝶番を指して
「これはアルミニウムだ」
 というのを聞き、ここが太陽の王国だとわかった。
 ですが、太陽の王国の大台所には、竈はありません――と言おうとし、困惑した。男の名を思い出せない。じんわりと、胸に焦りが広がる。大切な人で、大切な名だ。すると、温かい気配が、体を包みこんだ。
 その温かさで、テスは目を覚ました。テスは少年ではなく、ここはかつて自分が所属していたいかなる場所でもない。礼拝所、仲間たち、温かい気配の源すなわち夢の男、そのすべてが薄れていく。
「――師……」
 テスは男の名を呼ぼうとした。だがやはり、わからなかった。頭さえ通らないような小窓から、固いベッドに黄昏の光が差していた。テスは枕の脇に置いた半月刀に手を伸ばす。寝たまま、柄頭の名にぼんやりした視線を注いだ。
『アラク』
 体を起こして、白いゴムで後ろ髪を結んだ。湯で顔を洗いたかった。寒かった。壁に引っかけたマントとストールに、ベッドの上から手を伸ばし、着込むと、もう一度毛布を体に巻きつけた。夢で与えられた温かさは、夢の余韻と共に消えていた。
 食事の出し入れが行われた小窓に気配を感じてそちらを見ると、老婆が小屋の中を覗きこんでいた。その目から放たれる冷たい気配を、テスは覚えていた。半月刀と銃を腰に装備し、小窓に歩み寄る。
「キシャだな?」
 果たして、小窓の外に立つ老婆は『亡国記』を胸に抱えていた。
「今度の憑依先はその人か」
「そうさ」老婆の声で意地悪く笑う。「それにしても、結構な待遇だな。こんな扱いをする連中を本当に助けてやるつもりか?」
「あの人たちは、助けてほしいと思っている」
「おまえは助けてやりたくないと思うこともできる」
 テスは目を伏せて、そっと首を横に振った。
「……まあ、よかろう。それでおまえ、あのデカブツと本当にやり合うつもりか?」
「滅ぼすことはできない。そうできれば一番だけど。俺は言葉つかいが修復作業を行う間、化生を引きつけておくだけだ」
「よくそのような危険を冒す気になったものだ」
「……どうにか、する」
「銃を使うといい。刃物よりな。あまり近付かないでおけ」
 伏せた目を上げて、テスは老婆をじっと見ながら小首をかしげた。
「何だ」
「どうして、助けてくれたり、助言をくれるんだ?」
「おまえは面白い。それだけだ」
「面白いものは、いずれ飽きる」
「だが今すぐではない」
 すると、激しい轟音が、そう遠くないところから聞こえた。家一つが叩き潰された如き轟音で、その音に、男女の金切り声が続いた。空気が恐怖で震えて、テスの頬を刺した。老婆が唇を片方だけ吊り上げる、嫌な笑いを見せた。
「また結界が壊れたようだな」
 テスは窓から離れ、戸に飛びついた。だが外から鍵がかかっており、鎖がわたされていた。
 誰かが走ってきて、鍵と鎖を外し始めた。その音から、焦る手つきが目に見えるようだった。
「追い払ってくれ!」
 日焼けした中年男が、戸を開けるなり上擦った声で訴えた。
「どこにいる?」
「あそこだ!」
 と言われても、テスにわかるはずがなかった。外に出て探した。すぐに見つかった。
 化生の本体はどこかに隠れたらしい。黄色い光に染まった雲が空一面を覆っており、その雲を背景に、真っ黒い二本の腕が、空中から村の家々のすぐ上に浮いていた。
 そのしなやかさで、女の腕だとわかった。腕は家々の屋根の上で交差し、離れ、また交差し、空気をかき回した。静かな舞いを連想させる所作で、指が優雅に動いていた。指が、一つの家の屋根を撫でた。指はその屋根を這い伝い、壁に下りていく。動きにあわせて腕が伸びた。肩も肘もない、のっぺりした腕だった。指は、壁を伝って一つの窓に入っていった。窓の向こうから女と子供の泣き叫ぶ声が聞こえ、すぐやんだ。
「村の中心地には一番頑丈に結界を巡らせたのだが」先ほどの老婆、キシャになった老婆が歩いてきた。「どうしてこんな破れかたをしたんだか」
「先生! いらしてたのですか!」
 この老婆が、結界修復に呼ばれた言葉つかいらしかった。
「さて」その老婆、決して化生に狙われぬ人ならぬ存在は、皺だらけの顔をさらに皺だらけにしてテスに微笑みかけた。頭を覆う青いスカーフを、化生の腕をくぐり抜けてきた風が撫でた。風が、化生によって生臭く穢されているように思え、テスは嫌な気分になった。「守ってくれるかね、若いの?」
 テスは返事をせずに走り出した。飛んで屋根に上がり、屋根の傾斜を走り続ける。屋根と屋根の間隔が開いているところは、風の助けを借りて飛び越えた。
 空中をかき回す二本の腕は、距離が縮まると、テスという餌に気がついた。動きが止まる。テスは化生の真下にある家の屋根に飛び乗り、左側の掌に向けて、両手で銃を構え、撃った。
 銃弾を浴びて、掌がひらひらと踊る。指や関節の部分に、何か白いものが見えた。歯だ。先ほど悲鳴をあげたものは、あれに食われたのだろう。
 二本の腕が揃ってテスに伸びた。
 蚊でも叩くかのように、左右から掌で挟もうとする。
 真上に跳び上がって避け、手首に向けて立て続けに連射する。地面に体を接していない状態で銃を撃つと、かなりの反動を体に受けることになる。肩に痛みを感じ、顔をしかめた。
 化生の腕が、一瞬で、二本とも視界から消えた。
 屋根の上に着地しようとしたテスは、嫌な予感に打たれて素早く大気を蹴った。舞い上がった体の下を、再び現れた真っ黒い腕が薙ぎ払った。
 右足の下に足場があることを想像し、それを蹴る。大気が白く濁り、実際に足場を与えた。跳びあがった状態で頭を中心に回転する。頭が下に、足が上になった体勢で両腕を伸ばし、下に見える化生の手の甲に向けて銃を撃ち続けた。
 回転が終わり、再び足が下になると、大きく横に跳んだ。それを追って、隠れていたもう一本の腕が空を切った。
 テスが屋根に着地すると、二つの掌が屋根の上を這い、テスを探した。隣家の屋根に飛び移ると、黒く大きな両手はその家の屋根をぐしゃりと押し潰した。
「私の家が!」
 誰かが憤りをこめて叫んだ。
 辻で、言葉つかいの老婆が木の杭に文字を書きこんでいく様子が見えた。
「どうしてくれるのよ、よそ者! 私の家が壊れたじゃない!」
「ざまぁみろじゃん!」アミルダの声。「あんた、あたしの家の栗の木に火ぃつけたことあるじゃん。バチが当たったんだよ!」
 テスは更に化生を撃ってから、ひとり言を呟いた。
「その性格は、もともとか……」
「冗談じゃねえ! 俺の家の屋根から下りろ!」
 怒りの声が、辻から屋根の上のテスに突き刺さる。そのテスを追い回す腕について、老婆がこう語るのが、空を切る音や銃声の合間に聞こえた。
「たぶん、あれはもう、形喰いになるねぇ」
「先生、形喰いになったらどうなるんですか?」
「彩喰いは、記憶を持つ生き物全てを食う。形喰いは……」
 大きく振られた化生の拳が、テスが立つ家の壁の一面にのめりこみ、破壊した。足許が崩れ、すぐさま後ろに後退し、別の屋根へと避難する。
「……形喰いは、形ある全てを食う」
「形あるすべて? じゃあ、家も? 村も?」
「そうとも。どこにも逃げ隠れできんぞ?」
「冗談じゃない! なあ、あいつを退治してくれ! 退治してくれよぉ!」
 最後の言葉が自分に向けられるのを感じながら、テスは戦い続けていた。腕は痺れ、肩には感覚がなく、銃を撃てば痛みが走る。構わず撃つと、銃を持った両手が顔の前に跳ね上がってきた。
「先生! あとどれくらいで終わるんですか! 早くしないと俺の家まで壊されちまう!」
「もうちょっと、もうちょっと」老婆の声には全く急いだ様子がなかった。「おおい、ちょっと、その腕を結界の外に引っこませてくれんかね! その隙に閉じるでねえ!」
 どうやら、作業は仕上げの段階に入っているようだ。
 振り回される腕を空中で回避したテスは、着地すべき家の屋根が破壊されていることに気が付いた。やむなく路上に降りる。道を走り抜け、まだ壊れていない屋根の上に飛び乗り、すぐに化生の注意を自分に引きつけるべく銃を撃った。体が大きくよろめいて、銃を落としそうになる。
「あいつもうヘロヘロじゃねえの」
 数人の嘲笑が、すぐ近くで聞こえた。テスは再び屋根の上を跳び、化生に近付いていく。その人達を守るために。
 戦いのさなかだというのに、悪魔めいた疑問が頭に浮かんだ。
 どうしてこの人達を守らなければならないんだろう、と。
 腕の一つが、屋根の上から辻へと伸びた。やはりそれを見ると、銃を構えずにいられなかった。もう撃ちたくない。それでも自分は撃つのだと、テスにはわかっていた。人が食われるのは見たくない。それは恐怖、しかも深い懺悔を伴う恐怖だった。太陽の王国、または夜の王国での経験に起因しているのだろう。撃ちたくない。でも撃つ。でも、もう撃てない――。
『マリステス!』
 誰かが頭の中で叫んだ。
 夢の男。
 あの温かい気配が背中に触れた。背後から、肩に、腕に、そして指先にまで、温かさが広がった。痛みを吸い取り、庇い、支えるように。
 声に打ち払われて、邪魔な思念が消えた。
 頭の中も、目の前も、真っ白になった。その時、テスにはわかった。
 夢はあくまで夢であり、非存在ではない。夢は夢であるがゆえに、妄想でも幻覚でもない、と。
 気付いた時には化生が消えていた。それで、自分が銃を撃ち終えたことを理解した。見上げれば、二つの掌はずっと上のほうで何もない場所を撫でている。それが結界の表面、村を守る、修復された天蓋なのだ。掌は、結界を押し、壊そうとしている。不安を誘う光景だった。
 あっ、と誰かが叫んだ。
「先生! しっかりしてください!」
 老婆が、作業をしていた辻で横ざまに倒れていた。胸にしっかり抱えていた書物は消えていた。老婆を抱き起こした男が脈を取り、震える声で告げた。
「死んでる……」
 たちまち、近くの村人が集まってきた。
「ああ、先生、心臓が弱ってたから……」
 結界修復の負荷に耐えられなかったのか、またはキシャ、あるいはあの書物の憑依に耐えられなかったのか、テスにはわからないし、両方かもしれない。緊張が解け、急に体が重くなった。
 結界はようやく一個、しかも村人たちと修復師の最初の契約にはなかったであろう、壊れたばかりの一個が直されただけだ。だがもう修復師はいない。
 体の重さに耐えて路上に下り立ち、辻へ歩いていくと、様々な目、とりわけ気まずさと、媚びるような目がテスを出迎えた。だが、テスへの期待を明確に声に出す者はいなかった。
 テスは銃をホルスターに収めた。
「じゃあ、契約終了ってことで……」
 彼らに背を向けて、村の出入り口に歩いて行く。背後で低いざわめきが生じた。
「あの野郎がさっさと片付けねぇから、先生が……」
 立ち去るテスの足許に、中年の男が呪いをこめて唾を吐いた。
「こんなやり方じゃもう駄目なんだ」背後で別の誰かが言う。「これからは、自分たちで何とかしないと……」
「自分たちで? できるわけないだろう!」
 アミルダの横を通り過ぎる時、彼女は忌々しげに舌打ちした。
 数々の声が後ろ指をさす。
「俺の家を直していきやがれ」
「役立たず」
 テスは完全に村を出るまで、足を止めなかった。
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