夕闇深く

文字数 3,977文字

 1.

 石床の敷布(しきふ)の上に片膝を立てて座り、テスは針に糸を通した。傷だらけの指は三度狙いを外して針穴の横を滑り、四度目に穴に入った。
 膝を立てたほうの足の臑に針を近付ける。服は茨に裂かれ、血で汚れていた。止血はしたが、服の血はまだ生乾きだ。その布地を右手でつまみあわせ、左手で縫っていく。
 目はうつろで、瞼は今にも落ちそうだったが、手をつけた箇所を縫い終わるまでは持ちこたえた。最後に糸を結び、(はさみ)で針と糸を切り離すと、テスは鋏も針も敷布の上に投げ出して、壁に背を預けた。そのまま目を閉じた。意識が闇に落ちていく。不鮮明な夢から様々な気配が滲み出て、暗闇でテスを取り巻いた。
 気配は一つに収斂(しゅうれん)し、女の声で囁いた。
「目を閉じたまま聞きなさい」
 眠っているとも起きているとも言えぬ状態で、テスはその声を聞いた。
「私はおまえを離れるよ」
 茨の中で聞いたのと同じ声、しかし、今は優しく、教え諭す口調だった。
 テスは心の中で尋ねた。
「俺を見捨てるのか?」
「そうだよ。おまえを突き放すのが、おまえへの最後の助けになる」
 痺れた頭は何も思いつかず、言われたことを理解できているのかどうかもよくわからなかった。テスはただ心に浮かぶことを尋ねた。
「じゃあ、最後にもう少し教えてほしい」
「言ってごらん」
「この夕闇の国で、一人で、俺はどうすればいいんだ?」
 沈黙があり、夢うつつの状態でテスは待った。
 キシャからの答えはこうだった。
「ここは夕闇の国なんかじゃないよ」
「どういうことだ?」
 再び沈黙が訪れた。テスはキシャが答えないことで、ひどく悲しくなり、ほとんど目が覚めそうなほどだった。
「キシャ、どうして黙るんだ? どうしていつも、本当に大切なことは教えてくれないんだ?」
「おまえが本気じゃないからだよ」
 どう訴えようかという思いを見抜いたかのように、キシャは重ねて言った。
「まだだ。まだ本気じゃない」
 心はひどく揺さぶられたが、疲労によって夢うつつの状態は保たれた。瞼は重く、開かなかった。
「船の上でおまえは、言葉つかいの脅威を私に説かれても、人を助けずにはいられないと言ったね。私は、ならば自分の信念でそうしろと言った。その結末を、自分の体で知りなさい」
「キシャ、あと一つ」
 テスは悲しみのままに引き止めた。キシャの気配が応じる。
「何だ?」
「キシャ、俺は人間だ。そうだろ?」
 化生の姿、とりわけ機関車を襲った恐ろしいものの姿を思う。
 言葉つかいの力、とりわけ人を魚に変えたあのおぞましい(わざ)を思う。
 俺は化け物なんかじゃない。
「なあ、そうだろ……?」
「違うよ」素っ気ない答えだった。「そんなのは、おまえに対する他の人間の態度を見ればわかるじゃないか」
 それきり声は消え、女の気配もなくなった。
 テスは目を開けた。もう閉じていることも眠ることもできなかった。
 キシャの器となるような女性も、『亡国記』とその光も、テスの前には存在しなかった。廊下と部屋とを区切る石壁と、窓、窓の向こうの廊下、そして廊下の壁に設けられた窓と、窓を朱色に染める光。それが、テスの前にあるものだった。
 赤すぎる夕闇が揺らめいて、誰かが光を水のように掻き回した。テスは見る。翼をはためかせ、天空を渡る善い生き物を見る。群れ飛ぶ鳥の影を。
 鳥たちは窓から見える位置に留まり、動かない。
 テスは手を伸ばす。叫ぶように手を伸ばす。声はない。ただ口を開け、無音の叫びを放つ。鳥たちはテスに訴える。翼の音で語りかける。
 てす、泣かないで。
 てす、泣かないで。
 てす、泣かないで。
 てすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないで。
 てす……てす……。
 なかないで……。
 テスの手が指先から力を失っていく。
 そして、床に垂れ落ちた。

 ※

 どれだけ眠っても眠かった。壁にもたれかかっていたはずが、気付けば敷布に横たわっていた。もっとずっと寝ていたかった。異様な眠さとだるさだが、起きて歩き、飲むものと、食べるものを探さなければならなかった。テスは寒さに震えながら、敷布に手をついて起きあがった。
 座り込んで指で髪を整え、もう一度縛ったとき、夢でキシャと話したことを思い出した。そして、あれは夢だったのだろうかと考えた。話しているときは、夢ではないように思えたが、夢とはそういうものだろう。それに、信じたくなかった。この世界でキシャの助力を失うなど、考えるだけで怖かった。
 テスはアルネカが消えた街の、中枢と呼ばれる場所にいた。たとえ廃墟と化していても、祈りの場にいると安心できた。何もない部屋を出て、窓から差し込む朱色の光で染まった廊下を歩く。隣の部屋は広く、足踏みミシンがいくつも並んでいた。その部屋の先の階段を上ると白塗りの鉄扉に行き当たり、開けると屋上に出た。屋上は洗い場で、かつてこの建物で働いていた女たち、テスの服を洗ってくれた女たちが生き残っているような錯覚に陥ったが、気配を探っても、見つけられるわけがなかった。
 屋上に設けられた歩廊を渡り、物見のための小塔まで行った。錆び付いた梯子を上り、警鐘の下に立つ。
 そこからは街を一望できた。
 左手には一対の円錐の屋根を持つ主郭が聳え、右手には、丘の向こうに灌漑された村がある。更に丘を挟んだ向こうには、海が広々と展開されていた。
 それから、真後ろを見た。
 見えたものは二つあり、その両方がテスを恐れさせるものだった。
 一つは地平線と空の間を黒く塗る、化生の大群だった。これほどの大群は見たことがない。右を向いても左を向いても、その端は見えなかった。鳥か虫のような、飛ぶものの形をしている。それがこちらにやって来る。
 もう一つが四台のジープだった。一列に連なって、中枢の外、水道橋に沿って延びる道路を走っている。
 化生より人間が恐かった。
 テスは人間が好きだった。人と一緒にいたかった。仲間に入れてもらえなくても、そばにいさせてもらえればよかった。人に笑っていてほしかった。楽しく生きていてほしかった。
 今は違う。
 人はテスを殺す。テスも人を殺す。敵同士になってしまった。
 追っ手だろうか? テスは慎重に考える。違うかもしれない。丘の向こうの村の人たちかもしれない。ならば化生の危機を告げなければならない。
 テスは大気をまとって塔から飛び降りた。着地の寸前で静止し、爪先をゆっくり地につける。中枢を横切り水道橋へ向かった。
 アルネカが消えて街の空は晴れたが、今また雲が押し寄せて、晴れている部分より、雲に覆われている部分のほうが多くなりつつあった。テスは中枢を囲む城壁から民家の屋根に飛び降り、その後は、屋根の上を通って移動し、水道橋に飛び乗った。
 アーチ型の橋を上下左右に積み重ねた形の水道橋は、長い間風に洗われ、足を滑らせるような物はない。ただ時折雲間から差す光によって落ちる長い影に気をつけながら、テスは歩いた。
 果たしてテスの体もテスの影も見咎められることなく、ジープに乗ってきた一団を見つけた。三人ずつに分かれてジープが止められた区画に散っている。
 テスは言葉つかいの気配を感じ取った。
 水道橋の上から探す。建物の陰にいるようだ。気配をたどるべく、水道橋から飛び降りた。
 その言葉つかいはすぐ足許にいた。音もなく屋根の上に降り立つと、声が聞こえてきた。
 しゃがんで気配を消し、屋根の上を移動する。
 ついに声が聞こえるようになった。
「堕落ってどういうことだ?」
 声をはっきり聞き取れるようになってから、テスは屋根に伏せた。屋根の縁までたどり着き、そっと顔を覗かせる。
 二人の男がいた。
 一人はジュンハだった。機関車の中で会ったサイアの父親だ。彼もテスの顔を覚えているはずだ。
 もう一人の男は赤毛の言葉つかいだった。気配の源となっているその男は、まだ若く、体つきががっしりしており、苛立った様子のジュンハの前で困ったように髪を掻いていた。
「だからさ、言葉が神ならば、俺たちは神の力を、あんた方はその銃で、神を模した力を使っているわけだ」
 テスは腹這いの姿勢で後ずさり、屋根の上に完全に姿を隠したが、興味を抱いて会話に耳を傾けた。
「でも実際に起きていることときたらどうだ? その力を誰もが自分のために使ってる。俺もだ。その結果いがみあって、殺しあって、そうだろ? 誰にも正しいことはできないし、この力で何かを悟ることもない。むしろ力によって道を踏み外してる」
 ジュンハは黙っている。
「この街でかつて起きたことだってそうだ」言葉つかいは喋り続けた。「こんな小さな共同体の中でさえ、いがみあって、殺しあって、滅んでしまった」
「それがどうした」
 娘を殺された父親は、怒りを込めて応じた。
「いがみあって殺しあうことをどうして止められる? 何の罪もない一人娘を殺されて、どうして殺さずにいられるんだ?」
 ジュンハがそれを言い終わらぬうちに、言葉つかいがため息をつくのが聞こえた。ジュンハが言い募る。
「お前、やる気がないなら――」
「うるさいな、もう! わかってるよ!」言葉つかいがそれを遮る。「前払い金たんまりもらっておきながら、やる気がないわけありませんよーだ。ちぇっ!」
 テスは屋根の上を更に後ずさって、二人から遠ざかった。
 化生から逃れなければならない。
 あとは運命が、彼らと自分をどうにかするだろう。


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