いつか傷は癒える

文字数 4,885文字

 1.

 テスは鳥を見た。
 深い霧が出ていた。鳥が顔を覗き込んでくるので、自分は今、仰向けになって寝ているのだとわかった。
 鳥は黄色い嘴をしており、それは尖ってはおらず、丸みを帯びて、長かった。水に濡れ、光沢を帯び、優しさとともに水滴が、テスの口へと垂れ落ちていた。するうちに、鳥が嘴を使って水を飲ませているのではなく、涙を流しているのだとわかってきた。
 鳥が消え、暗闇の中、口に水の滴り落ちる感触だけが残った。水が喉に詰まらぬよう、誰かが慎重にテスの舌や唇を濡らしているのだ。
 誰か、男の声が囁いた。
「お前、諦めるなよ。絶対助けてやるからな」
 そしてまた眠った。今度は誰かがテスの手を握った。
 長く眠った。もう一度目覚めたときにも、誰かの手の感触は消えていなかった。
 テスは目を開けた。
 今度は鳥ではなく、人が、顔を覗き込んでいた。
 暗い空間だった。闇の濃いところがあり、また淡いところがあるということしかわからなかった。濃い闇は、人の形をしており、逆光を浴びた人間なのだと次第にわかってくる。離れたところに天籃石の明かりがあるのだ。
 テスは瞬きを繰り返した。だんだん皮膚の感覚が戻ってきて、瞬きの度に、顔に何か覆い被さっていることがわかってきた。口の周りを軽く動かす。やはり何かがある。どうやら顔を、包帯でぐるぐる巻きにされているようだ。何故だろう。テスには思い出せない。
 テスを覗き込む闇に、二つ星が見えた。それは二つの目であった。一つは慈愛、一つは悲痛の光を湛え、それらの光をテスの顔に注ぎ込んでいた。
 遠い光に目が慣れて、顔を覗き込むその人物が老人であることがわかってきた。そして、老人の背景が見えてきた。弧を描く天井が見え、空間の狭さがわかった。幌の中にいるらしい。トラックだろうか。床に直接敷いた布の上に寝かされているようだ。幌の中は積み上げられた木箱で仕切られていた。光源は仕切の向こうにあり、ぼそぼと低い声で囁き交わす、男女の真剣な声が聞こえてきた。
「マリステス」突如、老人が名を呼んだ。「もう大丈夫だな」
 テスは呆然としたまま瞬いた。テスには老人がわからない。だが老人はテスをよく知っている。その目でわかった。その口調でわかった。
 手が解かれた。老人は、音も立てずに立ち上がり、木箱に立てかけた連射式の弩を取り上げた。そして、やはり一切の音を立てずに木箱の仕切の向こうへと、姿を消してしまった。
 だが、木箱のすぐ向こうにいる男女は、老人を全く意に介さず会話を続けている。テスはよく耳を澄ませた。
「問題は」男の声が言った。「万能の神が作った俺たちが、なんでこんなに馬鹿なのかって話さ」
 素性を知りたかった。
 助けてやる、と言ってくれたのは、あの男だろうか。それとも夢だったのだろうか? どうやって、どういう目的で、自分を助けたのだろう? 危険の度合いを量らなければいけない。
 それに、神の話をしているのなら、それを聞きたかった。
 それでもテスは動けない。
「神が私たちを神によく似たものとしてご創造たもうたなら、私たちは二重に記憶を失ったことになるわね」女の声が答える。「まずは人として生まれたときに。そして更に、この世界に落ちてきたときに」
「俺たちは堕落したのか?」男の声は一層低くなる。「天使が天から堕ちたように、この世界に堕ちたのか?」
「私たちは天使じゃないわ。そんな善いものじゃないって、わかっているでしょう。神は私たちを神として作った訳じゃない。似せて作ったのは見た目だけよ」
「じゃあ、俺たちは何でこんなに苦しむんだ? 俺たちが人形にすぎないなら、試練は何故あるんだ?」
 沈黙が続いた。黙した二人の重い思考が、寝たままのテスの体に風のように流れてくるようだ。
 立ち上がる気配。女の声が言った。
「容態を見てくるわ」
 男が生返事をする。木箱の向こうで光が揺らぎ、それが大きくなって近付いた。そして、強い光が木箱の仕切の割れ目から現れ、闇を裂いた。
 テスは目を細めたが、閉じはしなかった。
 お陰で、女と目があった。女は驚いた様子で、しばし立ち尽くしたまま、じっとテスを見下ろした。

 ※

 テスは一日の大半を寝て過ごした。男か、女か、どちらかが、時々テスを揺り起こした。はじめ、彼らは薄い塩水を飲ませた。貴重なはずの砂糖をとかした水も飲ませた。起きていられる時間が長くなると、原型を留めぬまでに煮込んだ麦粥を飲ませた。幌はテスが思った通りトラックで、彼らはそれを運転する。その振動で目覚めることがあり、また荷下ろしで、また集荷で、またトラックの外の賑わいと生活の気配、人々の声で目覚めることがあった。
 二人はテスを庇い、村人に気づかれぬようにした。理由はわからぬが、とにかくそうしてくれた。サラが言っていた二人組の言葉つかいの行商が彼らのことだとテスは間もなく理解した。町や村を巡り、物を買い、運んで売る。時に護衛の仕事も引き受けるという。この一帯では名も顔も知られた存在だった。
 テスを保護したのは、ジュンハの護衛を引き受けていた男で、名をミスリルといった。均整のとれた逞しい体つき、そして精悍な顔つきの若者だった。決して端正な顔立ちではないにも関わらず、魅力的な男だった。目のせいだ。この世界でここまで生き生きした目を見るのは初めてだった。
 女のほうはアエリエといった。若く、驚くほど美しい女で、言葉つかいの力を用いずとも、ただいるだけで人を癒すような不思議な存在感だった。青い瞳は力に支えられた慈悲に満ち、熱く、そして静かだった。
 二人はテスに何も聞こうとしなかった。ジュンハのことで問いただされたり、非難されることをテスは恐れた。だが、今それをしたらテスが壊れてしまうと心得ているようだった。二人はただ、仕事の合間に介抱し、面倒を見てくれた。そして、大丈夫だと慰めた。何故この二人がこれほどよくしてくれるのか、テスにはわからない。同様、この二人にも、何故テスによくしなければならないのか、理由はわからぬと言った。
 悪夢は見なかった。
 不思議なほど見なかった。
 良い夢も見なかった。
 あるとき、テスは鳥の羽音と、鳴き交わす声を聞いた。テスは何度も瞬いて、目がしかと覚めていることを確かめた。夢ではなく、幻聴でもなかった。テスはいくらか起き上がれるようになっていたので、起きて靴を履いた。壁に手をついて歩き、木箱に手をついて歩いた。体はひどく弱っていた。足は震え、木箱の仕切の向こう、幌の上部に備えられたビニールの窓に目をやったとき、よろめいて倒れた。すぐに外から誰かが駆けてきて、閂を開け放った。アエリエが風と共に入ってきた。
「テス」アエリエは、咎めようとも、何をしようとしていたのかを問いつめようともしなかった。ただ傍らに跪き、起きあがろうとするテスの背中に手を当てた。「テス、大丈夫?」
 両腕を支えに起き上がろうとしながら。テスは首を横に振った。
「どうしたの? 言ってごらん」
 アエリエはどこまでも優しかった。
「鳥を」だがテスの喉は痛み、必要なことを言うだけで精一杯だった。「見たい……」
「鳥? どうして」
 テスが答えず黙っていると、アエリエはテスの腕を取り、自分の肩に回した。アエリエはテスより背が高かった。彼女はテスが幌から草地に下りるのを助け、その後も肩を貸して歩かせた。
 赤い空を見ながら、草の上を歩いた。丘の上に楡の木を見た。アエリエは坂を上り、テスを木の下に連れていった。
 丘の下には、小さな村が見下ろせた。
 村の外れの小さな池に、白い家鴨(あひる)たちが放たれていた。テスは驚きに打たれ、もはや何も考えられず、目を大きく見開いて、遠くの白い水禽に見とれた。それは、テスがこの世界で初めて目にする生きている鳥だった。
 それだけではない。
 砂の打たれた通りを鶏が歩いている。屋根から屋根へ小鳥が飛んでいる。それより大きな鳥は、村の上を飛び交う。更にはテスとアエリエの上に枝を広げる楡の木からさえも、鳥の声がするではないか。
「どうしたの? 何か、珍しいものが見える?」
 テスにはアエリエの質問に答えられなかった。何故鳥が見えるようになったのか? あるいは、今まで何故見えなかったのかと問うべきかもしれない。
 その日からテスは、体の回復に努めるようになった。いくらか動けるようになり、顔の包帯がとれると、二人の行商の仕事を手伝うようになった。
 秋は深まり、季節は冬へと軋みながら滑り落ちていく。

 ※

 テスが草原を駆ける。
 左手が右の腰に伸びる。
 半月刀が抜き放たれる。
 続けて右手が左の腰の半月刀を抜く。
 右足を軸にステップを踏む。半月刀が斜めに、真横に、縦に、振り下ろされ、振り上げられる。赤く染まる世界で、テスは見えない敵を切り刻む。
 半月刀の柄頭をぶつけ合わせた。ねじり、連結器を組み合わせ、二枚刃のブーメランにする。腰をよじり投げ放つ。ブーメランは赤い空に吸い込まれ、黒い点になる。それが再び大きくなり、テスの元に戻ってくる。
 大気を操り、戻ってきた武器が自分自身を傷つけぬよう、体の周りを周回させる。柄を掴んだときよろめいた。
 ミスリルが、水辺に停めたトラックに背を預けたまま声をかけてきた。
「まだ本調子じゃないみたいだな!」
 テスは息を切らしていた。二本の半月刀の連結器を外し、鞘に収めた。腕で額の汗を拭いながら、ミスリルのもとに歩いていく。
 十分に近付いてから答えた。
「でも、随分よくなったんだ」そして微笑んだ。「ありがとう」
「もういちいち礼を言うなよ。お前は十分働いてる。だろ?」
 アエリエは町に買い出しと、道路状況の情報収集に行っている。その間にミスリルとテスは、使える道路と仕事の有無の予測、仕入れと需要の予測を立て、アエリエが帰ってくる前に、食事の準備を済ませておかなければいけなかった。テスが来るまで、こうしたことをミスリルとアエリエは二人で行っていた。できるなら、アエリエに付いていって、彼女を守りたかった。留守に二人もいらないはずだ。だがテスは町が恐かった。アエリエとミスリルも、テスを町に近付けようとはしなかった。それが心苦しかった。
「それでも」
「言うなって」ミスリルは首を横に振る。「旅に出りゃ、痛い目にも遭うさ。一人ならなおさらな」
 水辺で鴨が鳴いている。
 鴨は繁殖期を迎え、頭を緑に変じている。冬が来るのだ。テスは寒くなかった。不思議と、この二人と出会ってから、あの絶えず身を苛む寒さを感じなくなったのだ。
「それにお前……」
 記憶が戻るのかもしれないという予感さえする。
「初めて会う気がしないんだ」テスはその言葉に驚いて、ミスリルの目をじっと見た。「ずっと前から知ってた気がするんだ」
 見つめ続け、無言で続きを促した。
「アエリエとも話したんだけどさ」
 どこか気まずいような、逡巡を含んだ声だった。ミスリルはテスから目をそらしてしまう。
「ずっと誰かを捜さなきゃならないって思ってたのさ。約束を果たさなければならない」
「どういう?」
「わからない。今でもわからないさ。でも、お前と会って焦燥感が消えた」
「それじゃあ……」テスもまた、迷いながらも確信を込めて答える。「初めて会うんじゃ、ないんだろうな」
「じゃ、やることは決まってるな。俺も、お前も」ミスリルの声に自信が戻る。そしてまたまっすぐテスを見た。「記憶を取り戻すんだ」
 決まってなんかない。テスは思う。だが言えない。ミスリルの善意の前に、もう一つの選択肢を口に出すのは憚られた。記憶を失うという選択肢を。
 決めなければならない。できる限り早く。
 この記憶は欲しいけど、あの記憶はいらないということは許されまい。
 すべてを手に入れるか、すべてを失うかだ。


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