祈りの行方

文字数 8,596文字

 3.

 空に力を感じた。丸い割れ目に雲が押し寄せて、黒い太陽を隠した。薄雲が曇り空に穿たれた穴全体に薄く伸ばされ、次に厚い雲がきて、完全に埋めた。テスはとうに自分の力を空に向けるのをやめていた。
「ティルカ――」
 礼拝所の入り口にたどり着いたヤトが、祭壇の前にいるテスの直線上に立つ。右腕を横にかざし、追いついてきたティルカを制した。
 空に、天の朱色とは違う光が走った。顔を上げたテスは、まだらに染まる雲の間を走る光の帯を見た。
 直後、確信を得て大気をまとい、後方へ飛んだ。耳をつんざく轟音と共に、紫色の雷が天から降りて祭壇の前の地面を打った。
「ヤト、やめろ!」
 祭壇の後ろの巨石の上に片膝をついて飛び乗ったテスは、ティルカの叫び声を聞いた。
「テスは取り乱してるんだ! それか誤解を――」
 雷鳴が低く唸り、ある気配が頭上を覆った瞬間、テスは巨石を飛び降りた。
「よせ!」
 ティルカの叫びをかき消して、雷が巨石を打つ。二、三、四と、立て続けに雷が落ちてくる。テスは空に意識を集中し、雷が落ちる直前の、言葉つかいの力の濃淡と反射神経だけを頼りに野外礼拝所を逃れ、走った。最後に雷は、地を這いテスを探した。
 テスは礼拝所の後ろの廃屋の、三角形の屋根に着地した。ヤトが右手を上げる。ヤトもテスを見失っていなかった。
 新しい力がテスの頭上に満ちた。それは雷の凶暴さとは違っているが、害意の点では同じだった。
 テスは右手を胸に当て、首にかけた陶片を、服越しに握りしめた。直後、石つぶてのような物が空から降り注いだ。
 大気の円柱を建ててその中心に立ち、旋風を起こした。風の鎧が降り注ぐ物をテスに触れさせず、砕き、跳ねのけた。(ひょう)だ。だが、透明な雹はナイフと同じ鋭さを持っていた。雹のナイフは風の刃に粉砕されて、きらめきながら散っていく。テスの風に砕かれなかった雹は、スレートを砕いて屋根に穴を開けた。
 テスに当たらぬとわかると、ほどなくして雹がやんだ。
 ヤトはティルカと共に野外礼拝所に入ってきていた。
 テスは眼下のヤトに告げる。
「俺をここから出せ」
「駄目だ」と、ヤト。「お前がしたことを許さない」
「謝ってくれ!」
 ティルカが叫んだ。
「テス、頼むから! ヤトと、街のみんなと、アルネカ様に謝るんだ。アルネカ様には俺が執り成してやるから!」
「許されたとしても、この街に留まるつもりはない」テスは静かに答えた。「お前たちの預言者のために、言葉つかいとして働くことはできないんだ。だから、ここから出してくれ」
「外に出て何になる? 外は危険だ。言葉つかいを迫害する奴が大勢いる」
「外には鳥がいる」
 ティルカもヤトも何も言わないので、テスはもう一度言った。
「生きている鳥がいる」それから、「ヤト」
 ヤトの殺気は目に見えるようであった。
「結界を解いてくれ」
 空に紫電が走った。それが答えだった。
 テスは屋根を走り、隣の家の屋根に跳び移った。テスがいた家の屋根を打ち据えた雷は、蛇のように幾筋にも分かれて空中を這い、テスを追う。その最初の一つが体に触れる前に、テスは腰の後ろの銃を抜き、両手で構えて撃った。
 銃弾が礼拝所に立っているヤトの足許を削り、砂が舞い上がる。ヤトが驚いてティルカと共に後ずさり、集中が切れた。同時に雷の蛇も消えた。
 テスは叫んだ。
「ヤト!」
 風の力がテスの体から噴きだして、全包囲へと広がった。テスの足許から円形に、砂塵が散らされていく。風は屋根の上から礼拝所におり、砂を散らして威嚇する。
「俺は物理武器を持っている。結界を解除しろ! そしたら殺しはしない!」
 風を強めた。風は砂で濁り、ヤトとティルカの姿をおぼろな影に変える。
「テス!」
 口を手で押さえているらしい、ティルカのくぐもった声がなお聞こえた。
「頼むからよく考えてくれ! ここに住むのだって悪い考えじゃないだろ? 着る物も、食べる物も用意される! 迫害されることだってない! テス!」
「嫌だ! 俺は出ていく。出ていって鳥を見たいんだ」
 風の中心、風などそよとも感じられぬ場所からテスは叫び返す。
「生きている鳥を! もう一度見たいんだ!」
「お前は鳥の息子か!?」
 テスは新手の言葉つかいの気配を感じた。
「その執着、普通じゃないぞ!」
 体を下方向に引っ張る力を感じた。テスは直感を頼りに屋根を蹴り、真上に飛び上がった。直後、屋根が崩れた。
 足許に目を凝らした。
 そこは闇だった。
 深い大地の裂け目へ、家が落ち、小さくなっていく。
 空中で大気の壁を作り、左足で蹴って、自らが放った強風の中へと身を投げた。ティルカとヤトの後ろに、小柄な人影が見えた。
 もう交渉は無理だった。
 これ以上留まっていれば、街じゅうの言葉つかいを呼び寄せることになる。そして、恐らくはティルカ以外の全員がテスを殺そうとするだろう。多勢に無勢だ。そして、殺されるつもりはなかった。
 地面は最初に崩れた家を中心に崩壊していった。テスの足場を奪っていく。テスは空中に留まり、両手で銃を構えた。そして、ヤトの後ろの人影の頭に銃口を向け、引き鉄を引いた。
 テスは風を鎮めた。
 言葉つかいの力を失って、虚無に変じた地面がたちまち修復されていく。戻ってきた砂地に片膝立ちの姿勢で着地し、舞い上がったままの砂に目を細めながら、テスはヤトを撃った。
 ヤトは言葉もなく地面に突っ伏した。
 野外礼拝所に残るのは、テスとティルカだけとなった。
 ヤトが死に、結界は解けたはずだ。テスは立ち上がりながら、ヤトの後ろに倒れている言葉つかいの姿を見た。そして息を呑んだ。
 まだ少年だった。
 リーユーだった。
「テス」ティルカが呻く。「これが何になるんだ?」
 ティルカの目をちらりと見た。銃を収め、テスはティルカに背を向けた。立ち去るテスを恐れてか、彼は追ってこない。だが言葉は続けた。
「お前は何をしたいんだ? 俺たちの世界を壊し」
 殴りつけるような音と共に、ティルカが絶句した。
 テスは慌てて振り向いた。
 まず目に入ったのは、前のめりに体を屈めるティルカの姿。ついで、苦しげな音を立てて口から吐き出される血。ティルカの背から腹にかけて。槍の穂先が貫通している。槍は太陽のように黒かった。ティルカは前のめりのままで、顔も下を向いているが、ぱちぱちと瞬きするのが見えた。
 ティルカの後ろから、抑揚のない女の声が告げる。
「下がりなさい、役立たず」
 それを聞き届けたティルカの体が、膝から地へと崩れた。ヤトとリーユーの血を吸った砂の中に倒れ、それきり動かなくなった。
 そして、その女、アルネカが現れた。表情はなく、また他者の表情を読みとることもない、盲目の言葉つかい。
 礼拝所の入り口に立っている。
 アルネカの殺意が波動となって、祭壇の前に立つテスを貫通し、礼拝所に満ちた。
 テスは再び銃を抜いた。
 銃口をアルネカに向ける前に、アルネカの姿が透明になり、消えてしまった。テスは、見えなくなったアルネカが立っていた辺りに銃を二発撃った。弾は通りの向こうの建物の壁に当たった。
 四方を見渡すも、アルネカは見つけられなかった。
 その間に、礼拝所の空気は変貌していった。
 足許の伸び放題の雑草が、砂の中に消えていく。小石が砂の上を転がり、見えざる手で通りに掃き出されていく。隅の掃除場では、掃除道具が勝手に動いて立ち、整頓されていく。蛇口の錆は消えていた。
 そして、巨石の後ろ、祭壇の後ろ、そこかしこから瑞々しい緑の茨の蔓が這い出てきた。
 蔓は太い束となった。
 そして、毒のような花を咲かせた。
 視界が闇となった。一面の闇の中に、最後に目にした茨の、赤い印象が浮いている。
 アルネカの主観らしかった。光のない世界。望んで手にした闇の世界。
 右も左もわからぬ世界で、テスは足の裏に感じる地面を頼りに方向感覚を保とうとした。アルネカの気配を探す。妨害するように、闇のそこかしこに暗い色が滲んだ。緑。黄。青。すべての色彩が褪せている。今見ている闇がアルネカの主観なら、色彩は、見えていた頃の記憶によるものだろう。
 突如、腹を殴られた。
 痛みと衝撃に叫び、慌てて喉に力を込めて声を殺した。女の力ではない。立て続けに顔に殴打を受け、殴り倒された。
 倒れ込むべき地面はなかった。体が宙に浮く。
 死者の町では、もっと酷く痛めつけられた。この痛みは記憶から引き出されたもので、今ここにあるものではない。そう気付いた直後に襲いかかった痛みは、しかし、今ここにあるものだった。
 無防備な背中と後頭部を何かに打ちつけた。蔓が這い、葉がこすれあって音を立てる。指先に痛みを感じた。植物の温かさと石床の冷たさで、茨が覆う巨石に叩きつけられたのだと理解した。
 緑の臭いを放ち、茨の蔓が意志を持ってテスの体にのしかかる。棘を持つ蔓が両足首にきつく食い込んだ。続けて右手首に巻き付く。テスは左腕を喉まで上げてかざし、首を絞められるのを防いだ。直後、左手首も強く締め上げられて、動けなくなった。
 棘が深く体に食い込み、血が滲み出るのがわかった。両手首から流れた血が掌に流れ落ちても、なおきつく食い込んでくる。更に、左右の脇腹から腹へ、左右の脇から胸へと蔓が這い進み、太股と二の腕にも巻き付き、巨石に押しつけるようにテスを縛り上げた。それでもまだテスの体を裂いてじりじりと動き、棘で傷を深くしていく。
 テスはきつく目を閉じていた。痛みに息を喘がせながら、活路を求めて指先を動かした。
 何か、冷たくすべすべした物に触れた。
『それは、ガラスでできた竪琴でございます』
 慇懃な女の声が、頭の中で呼びかけた。
『この竪琴のブローチは、昨日身につけた物かしら』
 そんなことを、自分自身が言ったように感じた。だが声はアルネカの声だった。
『さようでございます。今日はその二つ右隣……』
 手を動かす錯覚。指先が布でできた何かの小物、続けて再びすべすべした物に触れる。
『そちらはガラス製の茨になります。お色は青でして……』
 指でつまみ、胸に当てる感触。
『ああ、大変よくお似合いでございます』
 テスは足の裏に固い床を感じ、頬に窓から吹く風を感じた。
 違う! 違う!
 必死に心の中で叫びながら、逃れようとした苦痛を、今度は自ら求め感じようとした。記憶に同調したら、アルネカの主観の世界に閉じこめられて、消えてしまう。
 逃れた罰のように、蔓が締め上げる力を強めた。首や背中を仰け反らせて圧力を逃がすこともできず、テスは歯を食いしばって呻いた。
「アルネカ――」声にならない。だが口を動かした。「ここから出してくれ。それだけなんだ」
 直後、蔓が鞭のようにテスの頬を打ち、血を流させた。
 テスは記憶の目で、黒い太陽を見た。赤い空の、黒い太陽を。だが景色全体が黒ずんで、よく見えない。だが、それがアルネカが最後に見たものなのだ。そうとわかったのは、女の白い両手、目の持ち主自身の手が両目を覆い、闇となり、再び何も見えなくなったからだった。
 茨の咲くこの礼拝所で、言葉つかいの力によって、自分で自分の目を潰したのだ。
 テスは精一杯に両目を見開いた。テスの目は光を奪われていない。そう信じても、闇は晴れなかった。風を起こそうとした。力は茨に吸い込まれていく。
 ぐったりと力を抜くと、静かな場所を歩いているように思えてきた。
 足音の反響で、曲がり角の壁が近いとわかる。
 テスは左手を伸ばす。壁に手を触れる。つるりとした石の壁。
 石。
 テスは自分の記憶を探り、アルネカの主観を振り払おうとする。石。手。何かを思い出そうとした。頭に思い浮かんだ物は、ベッドの中で胸を撫でた、アルネカの手の感触だった。
 今度はテスが、闇の中で、胸を撫でる手の主になる。つるりとした冷たいイメージ。石。
 それをも振り払った。聴覚と、触覚と、皮膚感覚の世界。誰かがテスを取り巻いている。様々な声が近付き、遠ざかり、行き交っている。
 その中にリーユーの声を認めた。
 テスは頭にリーユーの姿を思い描く。その姿を中心に、宿の二階の窓から見たままに、町の景色を復元していく。
 それがうまくいきかけたかと思うと、体中が軋むほど茨の蔓が全身に食い込んで、テスは耐えきれず悲鳴をあげた。集中が切れ、頭の中に構築したイメージが消えてしまう。
『外に出たいだって?』
 誰かの声が嘲笑う。
『ここでさえうまくやっていけないお前が、外に出て何ができると思うんだ? みんなお前を嫌ってるっていうのに。世の中を甘く見すぎじゃないのか?』
 歯を食いしばり、悲鳴を止める努力をしながらテスは声に集中した。
『どうせお前は、自分は世間の平均から少しばかりずれてるだけだと思ってるんだろう』
 苛立ちと嘲りを込めて、声は意地悪く続いた。
『気にすることも、興味や関心の対象も、人と違う。だから誰とも話をあわせられない。お前みたいな普通じゃない奴はな、いるだけで、知らない内に、人の悪い面を刺激するんだよ』
 誰の声だろうか? リーユーだろうか?
『いいか。お前はどんどん周囲の人を悪くする天才なんだ。わかったなら、もう自分の世界から、狭い世界から出てくるな!』
 だとしたら、これを言われているのはニハイだろうか?
「ニハイ?」
 テスは苦痛の声と一緒に言葉を絞り出した。
「誰に……こんな酷いことを言われたんだ?」
「違うよ」
 思いがけず、間近でニハイの声がした。
「これはね、お兄さんが、毎日自分自身に言ってる言葉だよ。心の奥深くでね。お兄さんの声だったでしょ?」
 ニハイじゃない。
 テスは直観で理解した。
 キシャだ。
 だが、声はそれきり聞こえなくなった。
 空耳だったのだろうか?
 待ってももう、誰もテスに話しかけてこない。
 凄まじい孤独がきた。先ほど聞こえた声が、残酷な言葉が、体全体に染み込んでいく。記憶を失い、この世界に落ちてから、ずっと見ぬふりをしてきた孤独と孤立をテスは受け止めた。
 仲間がいると思っていた。根拠もないのに信じていた。少なくとも、いたはずだと。
 だが、仲間がいるのなら、今ここで孤独に陥っているのは何故だろう? 仲間が助けに来ないのは何故だろう?
 一人だったのだ。生まれたときから、ずっと。
『私を受け入れなさい』
 失意を読み取ったのか、すかさずアルネカの甘い声が頭の中に語りかけてきた。
『すぐに苦痛から解き放ってあげます』
 街を出て、一人で旅をして、何になるのだろう。どうすれば終えられるかもわからないのに。旅を終えた所に、自分を待つ人などいないのに。
「テス」
 キシャが、ニハイの声で呼びかける。
 いたのだ。空耳ではなかった。
「マリステス」
 閉じた瞼がぴくりと震え、テスは目を薄く開けた。
 キシャがテスを名前で呼ぶなどはじめてのことだった。
「マリステス・オーサー!」
 高く響いたその声は、もうニハイの声、借り物の声ではなかった。大人びた、威厳ある、気高い声だった。
「おまえが私を忘れても、私はおまえを覚えています」
 それが、キシャの本当の声かもしれなかった。
「私の名を呼びなさい」
 キシャの一声ごとに意識が醒めていく。孤独も、投げやりな気持ちも、夢のように薄れていく。
「私の名を叫びなさい!」
 どこにいるとも知れぬアルネカの、動揺の気を受け取った。
『そこに誰かいるの?』
「キシャ」
 草いきれの中で、テスは息を吸い込んだ。
「キシャ!」
 更に大きく息を吸う。
「キシャ! キシャ!」
 その名は魔法であるかのようだった。キシャを呼び叫ぶごとに、体の力は消耗されるのではなく、満ちていくように感じられた。
「キシャ!!」
 右手の指が動いた。
 石とも蔓とも違うものを指先に感じた。脆く、柔らかく、湿り気を帯びて崩れるもの。土のようなものだった。土? 何故……。
 崩れさるもののイメージが、ある閃きをもたらした。それは昨日の記憶だった。
 朱色の光が満ちる部屋で、アルネカが編み物をしている。赤い毛糸を編みながら、テスに語っている。
 テスは闇の中で、目を極限まで見開いた。
 浴室。赤茶色のタイルの浴室のイメージを、視線の力で闇に投げた。シャワーを。そして排水口を。
 すると、それが見えた。眩しさに耐えて、テスは目を開き続ける。
 真っ黒い水が、浴室の排水口に吸い込まれていく。真っ黒い人間が恐怖に泣き叫んでいる。
「……アルネカ」
 真っ黒い太陽の色を、更にその人間に投げた。
「黒はこの色だ」
 浴室の人物は、両腿から下が、既に溶け去り存在していない。腿の部分で立っている。細い体型と胸のふくらみで女性だとわかる。排水口が詰まっている。黒い水に、腿まで溶けた足を浸している。その足が更に溶けていく。テスは土を指でほぐす。つまみ、ほぐして、落とし続ける。
 それが、人間の輪郭が死ぬ感触だ。
『やめなさい!』
 恐怖の波動が、アルネカの叫びと共にテスの精神を打った。テスはやめなかった。
 土をつまむ。ほぐし、落としていく。
 浴室の女は両手を頭上に掲げ、蛇口を捻ろうとする。蛇口に当たったその指が、蛇口の固さに負けて崩れる。土の感触そのままに。
 足が完全に溶け、尻が水に浸かる。手は手首から先を失い、杭のように尖り、その先端は更に水に打たれて溶けていく。
 指先の感触だけで、テスはイメージを強化し、闇に投げ続けた。
『やめて――』
 アルネカが呻く。その呻きと同時に、浴室の女が口を動かす。顔中に水を浴び、耳と鼻はもうない。
『ああ、主よ――神様――慈悲を――』
 一際大きな土の塊を掴んだ。
 それを握り潰す。
 浴室の女の頭が砕け、浴室の床いっぱいに広がった黒い水に落ちた。
 全身の拘束が緩み、闇がほどけた。
 テスは目を細めた。
 光が茨の上から射していた。
 本物の光だ。
 雲に覆われた赤い空でさえ、闇の後には眩しかった。
 アルネカの気配を探る。どこにもいない。茨は枯れて乾き、もうテスを締め上げてはいない。
 テスは長く息をついた。目を閉じ、痛みと疲労に身を委ねる。
 もう、人の声もしなければ、気配もなかった。

 ※

 枯れ果てた茨の中で、テスは呆然と瞬きをしていた。体はずたずたに傷つき、棘のついた茨の蔓が赤く染まっている。倒れたまま、長く目を閉ざしたり、抗うように開いたりを繰り返したすえに、口を開けた。
「キシャ、大丈夫か?」
 返事はない。テスは左手に絡みつく、ゆるんだ茨を振り払うと、首を庇っていた左腕をゆっくり腰まで下ろしていった。そして、腰の半月刀を抜き、周囲の茨を切っていった。その間、燦々と輝く黒い太陽が、赤い空からテスを見下ろしていた。
 両手と上半身、そして腰に絡む茨を切り落とし、起き上がったテスは、まず右手側、指に触れた土の正体を確かめた。
 真っ黒い、大きな人形のような物が倒れていた。それがテスに触れられることによって崩れたのだ。
「ニハイ――」
 彼女に憑依していたキシャ、『亡国記』は、姿を消していた。それだけを確かめると、テスはニハイの残骸を見るのをやめた。
 足に絡む茨を切り、巨石から飛び降りた。力が入らず、着地の際に手と膝をついた。荒れた野外礼拝所の、ヤトとティルカ、そしてリーユーが倒れていた場所には、人間の黒い残骸が転がっているだけだった。死んだ色彩と輪郭だ。
 ティルカには酷いことをしたと思う。
 死者の嘆きを含み、風が砂を散らして吹く。
 街は荒れ、ここに住んでいた人は、街を支えるアルネカと共に消えてしまった。
 それで、彼らはどこに行き、彼らの祈りはどこに届いたのかとテスはぼんやり考えた。
 彼らは神の救いを求めていた。彼らは自分の罪と無力を知っていた。目は神を探し求め、心は神に開かれていた。
 テスは目を閉ざす。心を開く。両腕を広げて風を受け、嘆く風を鳥の形に作り変える。
 何十という鳥の羽ばたきが、テスの頬に触れた。翼が触れそうなほど近かった。目を開けたテスは、黒い鳥の影が空高くに舞い上がるのを見た。空を仰ぐ。鳥たちを追って顎と目線を上げていき――黒い太陽を見た。
 テスは声を失う。
 この世界でたった一つの忌むべき魂の行き場所、すなわち黒い太陽を恐れて、鳥たちが悲鳴のように叫んだ。飛ぶ鳥の三角形の隊列の、その先頭から体が崩れて黒い水となり、地に、野外礼拝所に降り注ぐ。鳥たちは跡形もなく溶け、一直線に落ちてきて、野外礼拝所の掃除場で水しぶきをあげた。
 砂の上を流れ、排水口に吸い込まれていく。
 テスは膝をついた。両手で顔を覆う。
 全ての鳥が跡形もなく失せ、黒い水も排水口に消えた後には、テスの両目から流れ落ち、両手の間から滴る水が砂を濡らした。
 天の黒い太陽が、それを乾かしていく。


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