闇は晴れるか

文字数 9,511文字

 2.

 丘と林を越え、その小さな村に着くまでに空は雲で覆われた。雨が降り始めた。その雫は砂地を黒ずんだ色に変え、やがてその黒ずみで地は塗り替えられた。テスには雨を避けられるところに急ごうという気さえ起きなかった。すぐにずぶ濡れになった。雨のほか何も見えず、水は服の表面から中へ浸透していき、体を冷やした。
 そのうちに、村の外れの池にたどり着いた。池と村は言葉つかいが立てた石碑と結界で守られている。テスは池の(ほとり)に歩いていき、雨で波打つ水面のすぐそばに膝をついた。両手を碗の形にし、すくって口に運ぶ。冷たい恵みが体に満ちた。
 一息つくと、畔に立つ痩せた木の陰から人が出てきた。
 テスはその人を見た。両手がほどけ、残っていた水が膝にこぼれた。
 水瓶を手にした、見たところ二十歳(はたち)にもならない娘だった。
 雨がやむのを待っていたのかもしれない。
 テスと娘は互いに驚きを込めて見つめあった。テスが立ち上がると、娘は雨の当たらぬところから何か話しかけてこようとした。だがテスは目をそらして立ち上がった。
 娘に背を向けるとき、テスの目に天を黒く覆う化生の群れが映った。化生は城壁に囲まれた街へと下りていった。
「あの街……人がいるのでしょうか」娘が話しかけてきた。「餌になるものがなければ、化生は留まりません」
 とても答える気にはなれなかった。娘を見ようという気も起きず、こんなことではいけない、と思いながらも、テスは歩み去ろうとした。
「待って」
 娘が木陰から出てきて、後ろからテスの肩を掴んだ。
「私たちの村で休んでいってください」
 テスは黙って首を振る。
「では、せめて化生が去るまで」
 歩き続けるが、娘は肩を掴んだままついて来た。
「ずぶ濡れではありませんか。服がこんなに水を吸って」
 テスは答えなかった。
「せめて、火に当たっていかれませんか? 村の集会所が使えますし、事情は何も聞きませんから」
 空いているほうの手で、娘は更にテスの左手の二の腕を掴む。
「お願いです。どうか……」
 それで、テスは足を止めた。
 娘の優しさが本物なのか、確かめてみたくなったのだ。
 娘はサラと名乗った。栗色の髪をした、見た目にも純朴な娘で、池を迂回して言葉通りにテスを村へと導いた。野外に人はいなかったが、畜舎からは物音や咳の音がして、覗き込むと不信に満ちた暗い目に出会うことができた。それらの目は、この世界の多くの人々がしている目であった。
 雨の音と嫌悪の視線に満たされて、村の集会所にたどり着いた。およそ働き口などなさそうな小さな村の中央に位置する、漆喰で作られた円柱の建物で、明かりはなかった。中は一間だけで、その円形の部屋の中央にあるストーブにサラが火を入れた。排気用の管がストーブから天井に伸びていた。サラは部屋の隅からスコップで石炭を運んできて、ストーブに投じた。それから椅子を一脚持ってきて、虚ろな目で佇んでいるテスに、丁寧に右手で示した。
「どうぞ、掛けてください」
 テスは濡れたマントやストールを脱ぎもせず、力なく椅子に掛けた。
 街にいた人々はどうなっただろう? 皆死んだのだろうか? 彼らの中には言葉つかいもいた。何人かは生き残るかもしれない。だが何人かは死ぬだろう。化生によって死ぬのではない。テスによって死ぬのだ。テスを追ってきたのだから。そしてテスが、危機を知らせることをせず、一人で逃げたのだから。だが、生き残った者たちが追跡を続ける可能性を考えると、ここにも長くは留まれない。
 サラが手を伸ばして、テスのストールを外そうとした。テスは首を横に振った。髪から雨の滴が垂れ落ちた。サラが動きを止める。何となく目を上げて彼女の視線の先を辿ると、テスの両手首に止血のために巻かれた、血で濡れた布を見ていた。サラが恐れを込めて尋ねた。
「どこから逃げてきたの?」
 テスはただ、サラの目をじっと見つめた。
 集会所の戸が開け放たれて、二人は同時にそちらを見た。
 村の男が六人入ってきた。二十代の若者に見えるのは一人しかおらず、中年は二人、あとの三人は老人だった。
 彼らはテスとサラを取り囲み、見下ろした。テスはうなだれて椅子に腰掛けたまま、顔を上げる気も起きなかった。
「どこから来た?」
 最初の質問が放たれた。後には沈黙が続いた。
「名前は?」
 別の村人が威圧的な調子で尋ねる。
 雨音が円い部屋に満ち、テスはまた眠くなってきた。どうしてこんなに眠いのだろう? 眠ってばかりいたい。眠り続けたい。
「言葉つかいか?」
 テスは目を閉じた。
「やっぱりそうだ、こいつ」
 村人たちは話し続けた。
「災厄だ。言葉つかいだ」
「あの街がまた姿を現したのも、こいつが関係してるんじゃないのか?」
 誰かが椅子の脚を蹴る。
「おい、答えろ」
「やめて」サラが割り込んだ。「この人は口も利けないほど疲れているの」
 テスは目を開け、ぼんやりしながら瞬いた。
 間近にいるサラの緊張が伝わってくる。
 仕方なく口を開いた。
「化生が去ったら出ていく」
 ひどく掠れた声しか出ず、村人たちが反応しないので、伝わらなかったかと思った。だがやがて後ろに立つ一人がこう言った。
「言葉つかいなら化生なんてどうにかできるだろう」
「お願いだから」と、サラ。「雨が降ってる間だけでも……このまま外に出したら、この人は死んでしまうかもしれない」
「知ったことか」
 真横に立つ男が吐き捨てる。
「サラ、お前はよ、村をどうしたいんだ?」
「どうもしたいとは思わないけど……」サラは唾をのんで続けた。「お願い。必要な物は私の家で賄うし、迷惑はかけないから」
「お前自身で稼いだ物が、お前の家にどれだけある?」
 質問ではなく、嘲るために放たれた言葉だった。
「お前の親父も報われねぇな」
 そして、入ってきたときと同じように、男たちは不機嫌そうに集会所を出ていき、戸を閉めた。
 彼らの足音が聞こえなくなると、集会所には、再び雨音が満ちるだけとなった。
 サラはテスの目の前に(ひざまず)き、テスの右手を自分の両手で包み込んだ。テスの両目は開かれているが、何も見えていなかった。サラの顔を見たいとも思わなかった。
「傷口を洗いましょう」
 穏やかに声をかけ、サラは立ち上がった。集会所を横切り、出ていった。そしてテス一人となった。
 ジュンハはどうなっただろうと、テスは何となく思った。生きているかもしれないし、死んだかもしれない。彼の娘はテスのせいで死んだ。ジュンハによって罰を受けるべきだと心のどこかで思っていた。むしろ願ってさえいた。そうでありながら、むしろジュンハを死の危険の中に残して逃げてきてしまった。
 何をしたいのか、何をしているのか、テスにはわからない。自分はいっそ殺されるべき罪人なのだろう。そう思う。
 サラが戻ってきて、集会所の戸を開けた。小さな水瓶と、膏薬の瓶、包帯が入った籠を抱えている。歩み寄ってきて、テスの足許にそれらを並べた。包帯を収めた籠から鋏を出し、テスの手首に巻き付いた布を裁ち切っていく。籠の中には、他に、油紙に包んだパンがあった。
 サラは手を休めずに尋ねた。
「目眩がしますか? ひどく血を流したのではありませんか?」
 テスは答えなかったが、サラは気にもせず濡らした水で傷口を拭き、膏薬を塗っていく。平気なふりを装っているが、手には迷いがある。皮膚をずたずたにしたこの傷がどういうものなのか、何故こんなことになったのか、想像するだけで恐いのだろう。
 そのうちに、遠くから羽音がきて、たちまち大音量となって空を覆った。雨音がかき消され、窓の外が真っ暗になる。
 化生だ。
「ここには結界があります。私たちも慣れていますし、怖がらないでください」
 サラの顔を照らすのは、ストーブの火のみとなった。
「でも、ここまで大規模な群れを見るのは初めてです」
 テスはだんだん、サラの穏やかさや親切さが耐えられなくなってきた。サラは包帯を巻きながら続ける。
「この村には、二人組の若い言葉つかいの行商が来るんです。男の人と、女の人で……あの人たちのことが心配です。……指を消毒しましょう。それが終わったら、他のお怪我を見せてください。それか、お顔のお怪我に触れてもよろしいですか?」
 テスは最後の一言に応じようとせず、沈黙を続けた。サラは黙って待っている。なので、首を横に振った。
「遠慮なんてしないでください」サラは恐れてはいるが、苛立つ素振りは見せない。「これは私が好きですることですから」
 どうして、ここまで親切にするのだろう? テスはその疑問を、最も短い聞きかたで尋ねた。
「どうして」
 テスが喋ったのが嬉しいのか、サラはテスをまっすぐ見上げて微笑んだ。
「聖典の教えです」
 そして、一語一語をゆっくり暗誦した。
「『兄弟愛が保たれますように。手厚く旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることによって、ある人々は、知らずにみ使いたちをもてなしました』」
「み使い?」
 テスは虚しく否定した。
「俺はお前が思っているようなものじゃない」
 テスはこれ以上の介抱を拒み、突き放すように言った。
「俺に構わないほうがいい。ろくなことにならない」
 肉体よりも精神的な疲労のほうが酷かった。
 人の親切を受け入れるのも、心の強さや力の一つらしいとテスは知った。今やそんな力さえ失われていた。ただただ一人にして、放っておいてほしかった。
「さっきは、約束を破ってしまいました」サラが真顔になる。「ごめんなさい。もう、あなたが何をして、どうしてここに来たかは問いません。ただあなたが痛ましいのです。ですから……」
 不意に何もかも打ち明けてしまいたいと思った。
 そうしたら、彼女は自分を軽蔑してくれるはずだという、卑しい願いだった。
「俺は罪を犯してここに来た」
 衝動的に、そう言った。サラは頷いた。
「あなたが希望を失うほどの罪ですか?」
 テスは頷き返す。
「ああ」
「ならば希望は、再び与えられます。私はそう思います」
 再び聞き返す。
「どうして」
「あなたがしたことを私は知りませんが、私も日々罪を犯しますから。それでも希望が与えられない日はありません」サラは淡々と答えた。「私は毎日、およそ神のみ旨に添わぬ、罪深い思いを抱きます。村に来る宣教師の先生にも打ち明けられぬ思いです。そして、私は聖典をよく読み、罪について祈りました。そしたら何が起きたと思いますか?」
「何が起きたんだ?」
「答えがあったのです。おかしなことを言っていると思われるかもしれませんが……」だが、目は確信に満ちていた。「泣き濡れて眠るとき、人ならざるものの声を聞きました。声は私に言いました」
「なんて?」
「『希望は、罪と堕落を知る者に与えられます。それは、残りが僅かなときにこそ、強く輝きます』、と」
 サラは跪いたままテスをじっと見上げ、反応を待っている。だが頭も心も麻痺し、テスには何も言えなかった。化生は村の上に止まり、羽音も影も去らぬままだ。少しして、サラは微笑んだ。
「ごめんなさい。おかしいですよね。でも、私にとっては本当なんです」
「それは、聖典の言葉なのか?」
「いいえ。私だけが聞いた言葉です」
 テスはもう少し、聖典や信仰の話を聞きたかった。
「どんな聖典なんだ?」
「外の世界からもたらされたものです。地球人の聖典だったものを下敷きに、外の世界の女預言者が編み直したものとされています。宣教師の先生のお話では、ひどく迫害された宗教だそうです」サラは笑顔を見せた。「でも、私は気にしません。そんな貴重な聖典の文が、どんな形であれ残っているというのはありがたいことだと思いますから」
 ふと心に引っかかるものがあった。テスはそれを口にした。
「その女預言者の名は?」
 何故そんなことが気になったのかはわからない。だが答えは得られた。
「キシャ・ウィングボウ」
 頭の中の霧が、一瞬にして晴れた。
 目に光が戻る。
 テスはサラの顔を直視した。驚いた様子で、サラは顔を強ばらせた。
「キシャ――」
 またも、この雨の中を誰かが歩いてくる。今度は一人だと足音で知れた。
 戸が開け放たれると同時に、雨音と、羽音と、嫌な気配がなだれこんできた。
「サラ!」
 男の怒鳴り声で、サラは初めて怯えた顔を見せた。外は暗く、部屋の中央のストーブからも離れているため、戸口に立つ男の姿はよく見えない。だが上半身が裸で、しまりなく太っていることはわかった。
「何やってんだ、お前」
 不機嫌に言いたてながら、大股で入ってくる。サラは、包帯を替えたばかりのテスの手首に手を添えたままだったが、その指先が強ばるのがわかった。
「今日の井戸掃除の担当がどこかわかってんのか」
「ごめんなさい、うちです、お父さん。わかってるわ。雨がやんだら、すぐに」
「それだけじゃない!」
 男はなお近付いてくる。
「飯! 掃除!」
「待ってて、これが終わったら」
「これって何だ」
 そして十分に近付くと、青ざめて目を伏せるサラと、テスの前に立つ。サラを冷酷に見下ろした。だがテスに対しては、見ようともしなかった。
「これって何だ、言ってみろ」
 男はズボン下を履いており、その下に下着が見えて、だらしなく、ひどく醜い格好に見えた。
「お前よう」顔から生気を拭い去られ、目の光を消したサラから、男は更に活力を奪い取ろうとしているようだった。「よそものの男と、家のことと、どっちが大事なんだ?」
「この人は疲れてるわ」サラが弱々しく言い返す。「貧血気味のようなの。顔色も悪いし……」
「お前さあ」底意地悪く、男は言う。「お前は男の前ではいい顔をするよなあ」
「そんなんじゃないわ」
 だが、男は口にするのも憚られるような品性下劣な言葉でサラを侮辱してから、更に言い立てた。
「なんだ? またアレか? 変な宗教の本に書いてあることを言い訳にするつもりか?」
「変な宗教なんかじゃないわ」その一言に、ようやくサラはまともに反応した。「私はするべきだと思うことをしてるだけよ」
「ふん、まあそれがお前には相応しいかもな」男が嘲笑う。「宗教にのめりこむ奴なんて、大概頭が悪いか、心が弱いんだ。せいぜい一生懸命努力して、無駄なことやってろ」
「やめて」
 サラが立ち上がる。
 顔を上げたテスは、ひどく下卑た笑いを男の顔に見た。男が手を上げたとき、おかしなちょっかいをかけるつもりだと理解した。視界の端で、サラが息をのみ、腕で胸を庇うのが見えた。
 疲れ果てていたにも関わらず、憎悪にも似た強い怒りがテスの心に閃いた。
 がたりと椅子が音を立てた。
 男と目があった。彼は、テスがいつでも立ち上がれることと、その目の鋭い光に気がついて、(ひる)んで手を引っ込めた。それからテスを睨み返したが、いざとなったら勝てぬという程度のことはわかるのだろう。
「神がいるなら救ってみやがれってんだ」ばつが悪そうに吐き捨てて、もう一度、「サラよう」
 テスが放つ張り詰めた空気に緊張しながら、サラは横目で男を見た。
「男にどんなに媚び売ったってなあ、お父さん、知ってるんだぞ? お前が毎日俺に便所を覗かれてるメス犬だってな」
 人の不幸が嬉しくて仕方がないタイプの男らしい。サラの顔が一瞬で真っ赤になるのを見て、大声で嘲笑い、背を向けた。出て行くのだ。戸口にたどり着くと振り返り、わざとらしい優しさを込めて言った。
「サラ、お父さんがこの程度で済ませてるうちに家のことをしたほうがいいぞ」喋りながら戸に手をかけた。「ま、腹を空かせて待ったところで、所詮メス犬の料理はメス犬の餌並みにまずいんだけどな」
 ようやく男は出て行った。戸が開いて外の羽音が大きくなり、閉まると小さくなった。
 サラは黙っている。
 彼女は出て行ってしまうのではないかと思い、テスは恐れた。一人にしておいてほしいと願っていたにも関わらず、今、サラに一人でいてほしくなかった。
 迷った挙句、サラを引き止めるためにテスは話しかけた。
「あの人の言うことは間違ってる」
 サラは少し顎を上げ、動揺しながらテスに目をくれた。そしてまた、うなだれて何か迷い、迷いながら口を開いた。
「あなたには信仰がありますか?」
「ある」
 迷いを捨て、サラがテスを直視した。テスはすぐに続きを言った。
「でも、忘れてしまったんだ。この世界に落ちてきて、記憶を失った。あったことだけ覚えてる」
「そうですか……でも、何となく、そうではないかと思いました」
 サラの顔に微笑が戻る。彼女はまたテスの前に跪いた。
「あなたは道に迷われた。それでも信仰を持つ人はみな兄弟、姉妹です。あなたは私の兄弟です」
「サラの家族はみんな宗教が嫌いなのか?」
「ええ……残念ながら。仕方ありませんね」
 一人でも、信仰はできる。それでも露骨に馬鹿にする人間が近くにいないほうが好ましいに決まっている。
「聖典は両親の尊重を説いています」
 テスはサラの目を見て尋ねた。
「そうなのか?」
「はい。父母を敬えと」
 なんと難しいことだろう。
 先ほどの男を敬うなど、テスにはとてもできない。
「私は――」サラの声が震えた。「その教えに触れるたび、むしろ父母を憎みます。憎んで、聖典の教えに背くという罪を犯します。でもそれは、自分では止められないんです」
「無理もない」
「私の手に余る問題です」サラは目をつぶった。表情が消え、また目を開けると一息に言った。「だから、この問題は神の手に委ねます」
 そして、唇を強く結んだが、テスがそっと頷くと、また口を開いた。
「……こういうことを、神に救いを求めることを、人は心が弱いからとか、頭が悪いからというかもしれません。ですが、目に見えないものを信じ、命を託すことは、むしろ心の弱い者にこそ厳しく……難しい道だと私は信じます」
「サラは弱くない」
「いいえ。それに、とても卑しい。あの人が言った通りです。私には、自分が神の国に相応しい人間だとは思えません。その国に入る資格があるとは思えないのです」
 テスには何も言えなかった。
「ただ、私にできることは……ああいう家族と……その中にいる自分を、見つめることだけです」
 胸の前で指を組み、サラは祈った。そして指を解くと、右手をテスの膝に添え、弱弱しく微笑みかけた。
 膝にあるサラの手の重みを感じたとき、その手は温かく、柔らかいのではないかという気がした。テスは左手を動かして、サラの手に重ねた。思った通り、温かく、柔らかかった。その上細く、繊細だった。
「温かい……」
 血で汚れた手で触れるべきではなかった。人に触れる資格も、温もりをわけてもらう資格も、自分にはない。そうわかっていても、手を離せなかった。サラも払おうとはしなかった。
「サラ」
 自分のことを知ってほしいという願いが沸き起こり、制御できなかった。
「テス」
 相応しくないと知っているのに。
 サラは丸い目で見上げてくる。
「俺の名前。マリステス」
 二度瞬いてから、サラはにっこりした。
「テスさん」
 不思議と疲労が癒えていき、感情が戻ってきた。サラは何かに気付いたような顔をし、籠に右手を突っ込んだ。そして油紙で包んだパンを差し出した。
「これ、食べてください。今朝焼いたものですから」
「ありがとう」
 包みを受け取り、広げてパンの匂いをかいだ。食欲などなかったはずなのに、食べたいと思った。ハムとチーズが挟んであった。口に入れると、ちょうどよく胡椒がきいていた。
「ああ……よかった」サラが、再び胸の前で両手を組む。「テスさんが食べてくれた……」
「おいしい」テスは、サラの父親が彼女に酷いことを言ったのを思い出した。「サラは料理がうまいんだな」
 サラは両手を組んだまま、顔を上げようとはせず、むしろ深くうなだれた。鼻をすすり上げた。息の震えを感じた。サラは泣いていた。テスは痛ましく思った。もう一度手を触れあいたいと思った。だが、それがサラの望むことかどうか、わからなかった。
「テスさん」
 震える声に、テスは身を乗り出す。
「ああ」
「雨がやむまでは、ここにいてください」
 不意に羽音が遠のきはじめた。窓の外から光が射し、サラの姿に薄い光芒が重なって、そして雲が割れた。
 雨は続いていた。僅かな雲の割れ目から光の柱が斜めに降り立ち、輝く雨のひとつひとつの雫に虹を宿らせた。
 雨は無音だと、テスは感じた。

 ※

 雨がやんでも、テスはしばらく村に留まった。人々が眠りに落ちる頃、家を抜け出してきたサラに付き添われて村を出た。
 サラと出会った池まで来てみると、晴れた今、海に向かって落ち込む崖と、きらめく海が見えた。サラによれば、崖の下の道は地元の人間にしか知られておらず、辿っていけば小さな港町に着くという。
 テスは遠くに行く。自分でもわからないほど遠くへ。だがサラは違う。この村の、酷い家族と家庭に留まる。テスはそれが痛ましく、悔しくさえあった。サラは辛いだろう。だが、だからといって何ができる?
 いつか、善いところに導かれてほしい。
 そう願うしかなかった。
「テスさん」
 そっと呼びかけられ、池の畔を歩き続けながら、テスは自分より少し背が低いサラの目を見下ろした。
「いつか、戻ってきてくれますか?」
 純粋な目がまっすぐテスを見上げていた。
 もう一度ここに来ることがあるだろうかとテスは考えたが、その可能性は限りなく低いと思われた。だがそれを告げるには、サラに対しても自分に対しても残酷だった。
「わからない」
 そして、いつしか自分がサラと共にいたいと思い始めていたことに気がついた。
 定住という考えが思い浮かんだ。屋根の下に住んで、どこかで働いて、素敵な異性が待つ家に帰る。
 魅力的な考えだった。
 それでもやはり、そんな生活はできないだろう。一緒にいる誰かを必ず危険に晒すだろう。
 サラの目に失意が影を落とした。
 車の走行音を聞いたのは、池を離れ、池と崖の中間地点に差し掛かったときだった。
 どこか近くでエンジンが音を立て、タイヤが荒れ野を踏みつけている。
 こちらにやってくる。
 テスの目に映ったのは、不動の黒い太陽、果てなき黄昏の底を裂いてやってくる一台のジープだった。
 テスは立ち竦んだ。
 サラをつれて逃げることはできないし、逃げることが正しいとは思えなかった。
 ジープはまっすぐテスに向かってくる。
「サラ」
 あの街には四台のジープが乗り込んだはずだ。だが一台しか残らなかった。
 不穏なものを感じるのか、サラが怯えの滲む目で見上げてきた。
「村に戻れ」
 だがサラは動かなかった。動けないのかもしれない。ジープがテスとサラの前で、二十歩程度の距離を挟んで停まった。
 ジープ一台しか残らなかったというのは間違いだ。ドアが開いたとき、テスは認識を改めた。
 二人しか生き残れなかったのだ。
 だがその二人は見たところ無傷のようだった。
 一人は赤毛の言葉つかい。
 もう一人はジュンハだった。


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