第1話 深海

文字数 1,262文字

 
 太陽の光を浴びながらスポーツタイプの車が道路を滑るように走行している。道路の右側には海があるのだが、巨大な防潮堤に阻まれて海はまだ見えない。
 その車には夫婦が乗っていた。
「もう少しで海を眺めることのできる展望台に着く。そこで休憩しよう。」
「うん、了解。夏前だけど、今日は日差しが強いね。日除けしないと。」
そう言うと妻はアームカバーや帽子を準備し始めた。
 
 車を走らせて行くと巨大な防潮堤が途切れ、「三角屋根の展望台」という看板が見えてきた。右折すると、海とだだっ広い駐車場が見える。海シーズンにはまだ早い時期なためか、駐車場には僕たちの他に車が一台のみだった。運転手は作業着を着た会社員の男性のようで、運転席でスマートフォンを操作していた。あの薄さからすると、最新型のスマートフォンかもしれない。
 
 車から降りると、海から吹いてくる風が僕たちを包んだ。風と共にやってきた潮の香りがとても久しぶりに感じる。
「ん~、気持ちいいね。」
 妻は両腕を上に揚げ、身体を伸ばしていた。アームカバーをし、つばの長い日除け用の帽子を被っている。僕は車から日傘を取り出し、妻に渡す。僕も日差しが強いので帽子を被った。
 
 駐車場からは海が見えるが、浜辺まで行くには途切れたコンクリートの出入り口を出て、階段を下へ降りていかなければならない。下り階段の反対側にある上りの階段を上がっていくと、三角屋根の展望台がある。三角屋根から4つの柱が延びていて、壁はなく柱だけが屋根を支えている。
 夏前の砂浜にはボロボロのサンダルやブイ、壊れたプラスチックのカゴなどゴミがたくさん落ちている。きっと、海に人が多く訪れる前に浜辺のクリーン活動が行われるはずだ。
 僕たちは階段を下って浜辺の方へ向かった。
 ザザアァ、ザザアァ。
 波が砂浜に来て、また次の波が来て、を繰り返している。そして時々、波頭を見せながら砂浜に打ちつけられている。
 
 僕は海が好きな方だ。波のリズムでリラックスできるからだ。
 波の音を聴きながら水平線を眺める。あの辺りはきっと深くて底の見えない暗い海が広がっているに違いない。僕は目を閉じてみた。そこにはどんな魚がいるのだろうか。きっと、人間が簡単に行くことのできない世界だ。魚たちと一緒に僕も深くて底の見えない暗い海に行ってみたい。あっ、海の成分でもいいや。僕という存在が粉々に砕け散って海の成分となってみるのもいい。そしてずっと海を漂っていたい。そうしたら、どんなに気持ちがいいだろうか。そんなことを僕は想像した。
「危ない!」
いきなり体をぐいっと後ろに引っ張られた。気が付くと、僕は海に向かって進んでおり、波は僕の足元を飲み込もうとしていた。
「もう少しで足が砂だらけになるところだったよ。靴下の替え、持ってきてないでしょ。」
危なかったね、と言って妻は砂浜をゆったりと歩いていく。その時の妻の表情は帽子の陰になってよく見えなかった。
 今、何をしようとしていたのか。僕は帽子を深く被りなおした。静かな空気に波の音だけがやけに大きく聞こえる。
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