第12話 E君と演劇

文字数 2,582文字

「俺、大学生の時も演劇をしていて、その頃から役者を志していました。…なんだか言葉にすると恥ずかしいですね。」

 E君はゆっくりと話し始めた。
「大学卒業後は就職せず、x劇団という劇団の入団テストを受けて合格することができました。自分でも驚いて、でも嬉しくて。役者としての道に俺は一歩踏み出せたような気がして本当に心から嬉しかったのを覚えています。」
 嬉しかったなぁ、とE君は感嘆しながらアルコールを体に流し込む。だが、彼の表情は少しずつ暗くなっていくように感じられた。
「でも、x劇団の演出家の方の指導がとても厳しくて…。いや、厳しいと感じていたのは俺だけだったかもしれないけど、その、なんというか、自分を否定されているような…感じでした。」

 自分を否定されている。
 もう奥の奥にしまっておいたはずの公務員時代の記憶がフラッシュバックした。

「その演出家の方は熱い方だったんです。舞台への思いが強かったのだと思います。だから厳しい指導も当たり前なんです。でも、自分には演出家の方の言葉がマイナスな形でしか刺さってこなかった。毎日、毎日、指導についていかなきゃと必死でした。」
 E君のアルコールを体に流し込む速さが速くなっていく。
「あの当時、もしマイナスをプラスに変えられる自分だったら…と今でも思うときがあります。だけど、そうはならなかった。気づいた時には心も身体もボロボロになっていました。」

 心も身体もボロボロ。

 E君は苦笑いしているような表情をしていた。私とE君の目は合わない。合わないけど、私はしっかりとE君を見なければならないと思った。
「その後、俺、演劇から離れたんです。2年くらいだったかな、会社員していました。」

 私は思わず、えっ、と声を漏らした。意外だった。E君は役者一筋で、それしかやっていない人なのだとばかり思っていた。思い込みをしていた自分が急に恥ずかしくなってくる。
「そんなにびっくりしましたか?これでも勤め人していたこともあるんですよ。」
 そんな私に対してE君はいたずらっ子みたいな顔をして言った。そしてまた遠くを見ているかのような顔をする。
「演出家の指導についていけない自分は演劇に向いていないと思ったから。その時は安定した会社員をして生きようと思ったんです。」

 演劇が自分には合わないんじゃないかと思った時のE君の気持ちは、深い谷に落とされてどう這い上がればいいのか分からない、といった感じだったのではないだろうか。私は拙い自分の頭で想像してみた。きっとE君にとって演劇は自分の全てだったはずだ。

 私はゆっくりと言葉を絞り出した。
「本当に、辛かったでしょう。それでも、E君はまた演劇をやっている。…本当にすごい、すごいです。…絶望してもう一度同じことをできるって誰でもできることじゃありません。」
 E君の目を見て伝えられれば良かったけど、照れてしまい途中で目を逸らしてしまった。それでも私は自分の思いが伝わるように、嘘のない言葉を使って伝えた。本当に心からE君をすごいと思ったし、尊敬する気持ちだったから。
「かいかぶりすぎですよ。」と言い、E君はビールを勢いよく飲み干す。
「でも俺のこんな過去話をきちんと聞いてくれて嬉しい限りです。」
 E君は続けて言った。
「俺がまた演劇をしているのは、会社員時代の時に観に行った舞台がきっかけですね。演劇からどう目を逸らそうとしても自分は演劇に意識を持っていかれてしまう。演劇が好きだし、自分もステージに立って物語を表現する一員になりたい、そう思い知らされました。演劇に対して未練たらたらだったんです。」
 E君は煮卵を箸で4等分に割っている。視線が煮卵へ向かい、長いまつ毛が店のライトに照らされ綺麗に見える。
「でも、もう一度演劇に戻るのにたくさん悩みました。当時、x劇団の知り合いからまた戻ってこないかと言われたりしていたんですけど、複雑な気持ちで…。x劇団の時のことを思い出すと、どうしてもあの辛い日々が思い出されてしまって。結局その知り合いからの誘いは無視してしまいました。俺、最低ですよね。」
 E君は何かをごまかすような苦笑いをする。そんなE君を遮るように、私は言った。

「そんなことないです!E君は最低じゃないです。絶対最低じゃない。」
 反射反応のごとく出た言葉に自分でも驚いてしまった。E君をフォローしたものの次の言葉を用意していなかったので、私は恥ずかしくなり、サッとE君から目線を逸らした。
 
 E君は最低じゃない、その逆で最高に素晴らしいと思ったのだ。私は、公務員時代の辛い日々から離れることはできたが、今の自分に納得することができずに、未だずっと何かを探している。憧れはあるものの、その憧れに突き進んだことはない。
 
 夢や憧れを追うE君と追うこともせず、安定したものにしがみつこうとする私。
 ここでE君に嫉妬してしまう可能性だってあった。でも私は嫉妬ではなく、E君を尊敬していた。この人が進む様子をずっと側で見ていたい。

「F君は素直な人だな。」
 頭の上から降って来た言葉に反応して、逸らした目をE君に合わせてみる。E君は「ありがとう。」と笑みをこぼしていた。
「そうだ、F君も今に至るまでのこと話してくださいよ~。俺は全て話したんですから、次はF君の番ですよ。」
 唐突にE君は邪推のない、真っすぐな瞳をして訊く。私の話なんて、E君程のドラマ性ありませんよ、と軽くあしらおうとしたがE君は逃がしてくれないようだった。
 仕方なく前職の公務員をしていた時のことを話した。そう話すと大体の人は「安定して給料も良さそうな仕事を辞めてもったいない」という本心を目に隠しながら「今は新しいところで働けているからすごいじゃないか」等の励ましの言葉をくれた。だが、E君は曇りない瞳で本当の言葉をくれる。

「F君が大変な状況から抜けて、ここまで来てくれたから、今、俺はF君と会えているんですね。本当に良かった、なんだか俺、とても嬉しいです。」
 E君の「良かった」は本物だった。
 E君は不思議だ。その言葉で安らぎをくれる。E君の嘘のない瞳はとても綺麗で、私はそっと「ありがとう。」と言った。
 
 店内は人々の熱気で天井の辺りが霞んで見える。
 その後は、お互いふざけ合う会話を楽しみながら、店の賑やかな雰囲気に溶けていった。
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