第9話 夜のビルにて

文字数 2,930文字

 キーケースはやはり会社の自分のロッカーの中にあり、私は安堵した。
 これで部屋に入ることができる。急いで会社まで来たため、じんわりと汗をかいて熱い。これは汗が冷えたら寒くなるぞと思いながら、私は来た道をまた急いで戻って行った。

 またあのビルの前を通りかかった時、気になって見てみると、二階のレッスン場は行きと同じくまだ明かりが付いていた。ケータイで時刻を確認すると、20時を回ろうとしていた。
 今考えてみると、なぜ私がそんな行動をしたのか自分でもよく分からないのだ。普段の私なら、気にせずそのままアパートへ向かっていた。それなのに、その時はビル二階の明かりが気になり、吸い寄せられるように私はビルの中へ入ってしまったのだ。

 ビルの二階は全てがレッスン場となっている。階段を上ると、6畳程の狭い踊り場があり、扉を開けばレッスン場となっている。扉を開いて向かいは大きな鏡が壁一面に並んでおり、床は無垢材でできたような床となっている。
 前は多くのレッスンスタジオが入っており、栄えた時期もあっただろうが、今はこの二階のa劇団レッスン場のみが本来の機能を果たしているように見えた。他の階は、個人経営のヨガ教室などが入っているが、イマイチ盛り上がりに欠けていた。

 二階の扉は完全に閉まっておらず、僅かな光と中にいる劇団員の声を漏らしていた。私は、少し開いている隙間からレッスン場を覗く。中には男性が一人、演技の練習をしていた。
 その声は低すぎず、でも高くない男性だと分かる声。声の出し方が一般人とは違うのだろう、肚から出している感じがする。私はしばらくその姿を見つめていた。
 
 一人自主練習する理由は何だろうか、近いうちに重要な審査があるのだろうか。様々なことを考えている内に、その人の顔に見覚えがあることに気づいた。気づくと同時に私は態勢を崩してしまう。ガタンッと大きな音を立てながらドアにぶつかり、レッスン部屋の中に転がってしまったのだった。
「うわぁっ!」
 劇団員の男性は体を大きくビクッとさせて驚いた表情をしている。
 態勢を崩した時に頭をドアにぶつけてしまったらしい。私はズキズキと痛む頭を抑えながら、立ち上がろうとすると、劇団員の男性が「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてくれた。「すみません。」と顔を上げて劇団員の男性と向き合う。やはり、と思った時だった。劇団員の男性は「あっ!」と声を上げた。

「もしかして、今日布巾落とした清掃員の方ですか?」
 思いついた、とはしゃぐ子どものように素直に彼は言った。
 はしゃぐ彼の様子とは対照的に私はその問いに答えることと、なぜ今ここにいるのか説明しなければならないと冷静に思った。いや、冷静に考えようとしつつも実は焦っていたのかもしれない。ちゃんと説明しないと私は不審者になってしまう…!
「はい、そうです。私もそうなんじゃないかなと思っていたところです。覚えていたなんてすごいですね、驚きです。えっと、奇遇ですね。でも、転んでしまって…。えっと、そもそも私がここになぜいたかと言いますと、会社にキーケースを忘れてしまいまして…」
 焦る気持ちを抑えて絞り出した言葉はとても不格好で何を言いたいのか分からない。必死に扉から覗いていたことを何とか弁解するために言葉を発するが、何をどう説明すればいいのか分からず、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
「俺、人の顔を覚えるのが得意なんです。自称ではありますが。」
 劇団員の男性は、へへっと照れたように笑うと、「あっ!」とまた声を上げた。
「もしかしてあなたは演劇に興味があって見ていたとかですか?」
 彼は、ひらめいた、といったような顔をして真っすぐ私の目を見て嬉しそうに言った。私は思わず、「へ?」と言葉が飛び出そうだったが、グッと堪えて彼に合わせることにした。
「そ、そんな感じですねぇ。今日レッスンの様子を少し見たら、なんか、こう、興味が刺激されたような感じ、になったというか…。」
 歯切れの悪い言い方だ。私は昔から口下手で、何度そんな自分に失望してきたのだろうか。その上、上手く表情も作れないので、多くの人に無愛想という印象を与えてきたと思う。私のちっぽけな自己嫌悪など気にもせず、劇団員の彼は嬉しそうに口を開いた。
「そうだったんですね~!昼間に会った人と夜にも会い、しかも演劇好き。なんだか俺、嬉しいです。あと、安心しました!」
「あっ、そうですよね。一人で練習していたら、いきなり人出てくるとびっくりするし、怖いですよね…。驚かせてしまって、練習邪魔してしまってすみませんでした。」
 私はやっと謝ることができた。自分のコミュニケーション能力のなさが原因で私の手は汗で湿っている。
 劇団員の男性は「いえいえ!出てきた人が生きている人で良かったです。」と言うと、息を漏らすように声を小さくして言った。

「このビル、幽霊でるらしいじゃないですか。」
あぁ、そうか。最近は慣れのおかげで、幽霊話のことをすっかり忘れていた。
「劇団員さんたちも知っていたんですね。確かに、自分もその話聞いたことありますし、まあ変な声を仕事中に聞いたりもしたことありましたね…。ただ、ここの清掃チームの人達はすっかり慣れているみたいで…、」
 私も来たばかりの時は戸惑いました、と伝えようとする前に、彼は「えっ!」と目を大きくして驚いた表情をした。そして「じゃあ、あなたも慣れている感じなんでしょうか?」と食い気味で訊いてきた。私は勢いに押されながら、「まあ、今はそんな感じですね。」と答える。すると、驚いたことに彼は私に頼み事をしてきたのだ。振り返れば、初対面の人にいきなりそんなお願いしないよなと思う。だが、頼んでしまうのが彼なのだ。

「俺、次回公演のオーディションで役を取ることを目指して練習しているのですが、自主練でスタジオを使えるのは夜しかないんです。でも、正直、幽霊出るビルに一人で残っているのも心細くて。だから幽霊に慣れている清掃員さんに俺の自主練習の付き添いをしてほしいです。無理なら、断って大丈夫です。どうでしょうか?」
 一つ一つ丁寧に説明する彼の瞳は真っすぐだった。
 人は簡単に信じられるものじゃない。蛍光灯の明かりできらりと光る彼の瞳が私を捉える。
 信じられないけど、それでも、たまには人に乗ってみるのもいいかもしれない。
 私は答えた。
「わかりました。演劇素人な私でも良ければ劇団員さんの自主練習中の見張り役しますよ。」
 彼は「ありがとうございます!」と嬉しそうに笑った。私も自然と頬が緩む。それから、彼は改まった様子で自己紹介をした。
「あの、俺、a劇団で役者している、Eと言います。よろしくお願いします。」
 この劇団員さんはEさんというのか。ふと、今なら少し砕けて話せるかもしれないと思った。
「私は、〇×清掃会社所属、幽霊慣れしている清掃員のFと言います。こちらこそよろしくお願いします。」
と丁寧に言ってみた。するとEさんは「幽霊慣れの清掃員って改めて言われると面白いですね」と失笑していた。そして私もつられて笑ってしまう。
 久しぶりに誰かと笑い合って、楽しくて温かい気持ちになった。
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