第7話 アクシデント

文字数 970文字

 新しい現場に慣れて仕事もスムーズになってきた頃。
その日は何かの手違いで清掃時間とa劇団のレッスン時間が重なるというアクシデントが起こった。
 劇団関係者は劇団のレッスン時間を優先させてほしいと頼んできたが、一清掃職員には判断できない。こちらの上の人と話し合った末に、レッスンと同時並行で必要最低限の清掃のみ行うことになった。
 私は仕事をしながら初めて劇団のレッスンというものを見る機会ができたのだった。
 
 緊張感とレッスンを楽しむような雰囲気が絶妙な距離感を保っている。熱心に指導している人がいて、実践している人がいて、私は俳優たちの熱気を感じていた。劇団の人たちが真剣にレッスンを行う姿を見るたびに、この人たちは自らの夢を実現しようとしているのだと思った。

 自分とは正反対の人たち。

 気にしていない風を装いながら私は仕事をした。見たくない。見ないようにしよう。意識を仕事に集中させる。

「落ちましたよ。」
 その声は私の意識を仕事から剥がした。ふと顔を上げると、目の前には細見の男性が立っていた。首にタオルをかけて、体を動かして熱くなったのか額に汗がにじんでいる。
「ポケットから布巾落ちたのを見たので。」
とその男性は白くて健康そうな手にタオルを持ち、私に向かって差し出す。私はいつの間にかピスポケットに入れていた布巾を落としていたらしい。全然気づかなかった。
「あ、ありがとうございます。」
 突然だったので、ぎこちない返事になってしまう。「いえいえ。」と言うとその男性はレッスンへ戻って行った。
 
 声を掛けられたことで、私の意識は劇団のレッスンへ吸い寄せられるように向かってしまう。こんなに真剣にレッスンに打ち込む人たちを羨望に似た目で見つめる。
 私も何かに真剣に打ち込んでみたかった。熱中して取り組んでみたいことが自分にはあったはずなのに…。
 劇団員の中からさっきの男性が目に留まる。そういえば、さっき見た時、引き締まった体をしていた。役者さんは毎日筋トレしているのかなぁ。
 ぼんやり眺める私の頭にコツンと軽い空手チョップが上から降って来た。振り向くと、怪訝そうな顔をしている先輩清掃員がいた。
「仕事に集中しろ~、手止まっているぞ~。」
 緩い注意に私は「すみません。」と言いながら、意識を仕事へ戻す。私たちは掃除を完了させてレッスン場を出た。
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