第22話 涙の雨

文字数 1,838文字

 a劇団の舞台初日は観客の盛大な拍手と共に幕を閉じた。
 こういう時、「後は千秋楽まで駆けていくのみ!」というものなのだろうか。ぼんやりとした頭で考えながら、私は劇場を後にした。
 
 行くつもりはなかったが、なんとなくあのビルの前に向かった。E君と初めて出会った場所。
 感傷に浸りながら、よく見ると結構古いビルなんだなと今更思う。電球が切れそうなのか、街灯が苦しそうにチカチカと光を揺らす。その時、肩に冷たい感触のものが落ちてきて服に滲んだ。
 雨だ。
 ポツリポツリと地面に黒っぽい水玉模様を描き始める。今日は雨が降るって天気予報で言っていたっけ。傘は持っていなかったが、濡れていても気にならなかった。私はそのまましばらく呆然と立ち、ビルを眺めていた。
 
 どれくらいの時間、ビルの前に立っていたかは覚えていない。だが突然、傘をさして息を弾ませながら走って来るE君が現れたのを覚えている。そして息を切らしながらE君は言った。
「ここにいたんですね。ケータイに電話もメールもしたのにどちらも返事ないからとても心配したんですよ。」
 なんでここにE君がいるのだろうと思いながら、そう言われてケータイを見てみると確かにE君からの着信とメールがたくさん来ていた。
「うわっ、すごく濡れているじゃないですか。あ、俺、傘一本しか持ってないや。」
と言い、E君はさしている傘を半分私の方に傾けた。傘の下にいると、雨は強く降っているわけではないのに、傘に雨粒がたたきつけられて雨音が大きく聞こえる。
 傘の中で二人、不意に目が合う。E君の瞳に私が映る。
 気まずくなり、ふっと目を逸らし、私は何か言わなければと思った。

「今日は舞台初日で、集まりとかこれからの公演のための準備とかあるのではないですか?こんなところにいていいんですか。」
 出てきた言葉にしまったと思う。まずは、「公演お疲れ様、今日とても良かった。」など労いの言葉を言えば良かった。これでは自分がふてくされているみたいだ。
「F君、悲しい顔していたから。ステージの上から見えたんですよ。だから、今日の舞台終わった後、会いに行きたいって…行かなきゃいけないと思って探しました。」
 えっ、と私は驚いた顔をした。泣き顔を見られていた…。ステージから客の顔が見えるのか。客席の方は暗くなっていたから、演者から観客の顔は見えないのだろうなと思っていた。それから、私の聞き間違いでなければいいのだが…。私に会いに行きたい…とE君は言っただろうか。
「びっくりしましたか?実はステージからお客さんのことよく見えるんですよ。特にF君は前の方にいたから尚更です。」
 E君は得意げに笑う。それから「まあ、でもここまで探しに来たのは勘ですけどね。」と付け加えた。
「結構濡れていますね。家に帰ったら、ちゃんと温まってくださいよ。だんだん暖かくなってきていますけど、やはり朝晩は冷える時があるので体調管理には気を付けてくださいね。」
 私からも何か言葉を言わなきゃいけないのに上手く言葉が出てこない。自分のためにE君が来てくれたことに、今、目の前にいることに、胸がいっぱいだった。
 やっと出てきた言葉は、「E君お母さんみたいなこと言うんですね。」だった。E君は少し笑って、「お母さんかぁ、そうかもしれないな。だってF君ほっとけないですもん。」と言う。私が「それはE君の方ですよ。」と言おうとした時、言葉よりも先に体が動いていた。
 
 私は傘を持つE君に近寄り、自分の右手をそっとE君の背中に添える。欧米の人の挨拶みたいにE君を抱き寄せていた。誰かが見ていたかもしれないのに、私は大胆なことをしているなぁと他人事みたいに思う。自分の冷え切った体温と交換するみたいにE君の温かい体温を感じた。私からも温かさをE君にあげることができたら良かったのに、私の身体は冷えている。それでも、私はさっきよりもぐっと力を込めてE君を抱き寄せた。そして、私はE君の耳元に顔をそっと近づけ、振り絞るように言った。
「君に出会えて私は本当に…本当に幸せだった。」
 この時、E君がどんな表情をしていたのか分からない。自分が泣いているような、切ない顔をしているような気がして、そんな顔をE君に見られたくなくてずっと俯いていた。それにその時の私はE君の顔をまともに見ることができなかったと思う。
 私は傘から出てその場を去った。雨はじんわりと服を濡らしていき、体が重くなっていく。
 
 E君と会ったのはこれが最後だった。
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