先ずは、この立場、保全

文字数 1,704文字

 梅雨明け、もうすぐ八月になる。今年は猛暑だと誰かが云っていた。

 眠い気持ちを上げて臨む週明けは、朝から気温も湿度も爆上がる。訪問の約束は、最も過酷な午後二時。課金すれば暑さが和らぐなら御代はどれだけ出せるか。ボーナスは気持ち増えたようにも感じる。独り身の老後を考えれば、無茶はできない。結婚資金の積み立てが脳裏をかすめ忸怩たる思いになる。学生の頃の完璧な人生設計が懐かしい。三十歳で結婚、一年後に第一子、三年後に第三子。預ける保育所まで決めていた。異性の友達もできない身には、ハードルが高かったのか。それでも諦めていない。長身で顔がよくて性格が最高でキミが一番好きと言ってくれる。もちろん稼ぎは大きく仕事もできるパートナーが現れるのを信じている。だから己を律して体形を保たせ身だしなみにも気を使っている。仕事はできるし、容姿は、人並みにたぶん良いと思う。性格は、少しきついかも、でも甘えて見せる。マッチングアプリなる神器は使う。声が掛かれば合コンにも出る。最後に見合いをしたのはいつだったか。郷里の母の懇願が懐かしい。
 あれやこれやと思案しながら、部下と待ち合わせる駅近くの喫茶店でスカートの中に冷気を導き涼む。上着だけは取り敢えず脱いだ。シャツの背の汗が乾く。汗っかきの身に猛暑の湿度高めは苦行だ。だいたいが夏の暑さに脆く冬の寒さに弱い身は、たぶん間違いなく遺伝的体質だろう。それを隠して気持ちで仕事に邁進する姿勢は健気だと自分を褒めればいいのか。
 レトロな喫茶店の飾窓から望める海岸沿い路面電車の線路。片側一車線の道に車が渋滞している。その後ろに見える海と空とが塗り絵のように重なり青い。夏の海に出掛けたのは、いつだったか想いだせない。学生時代が過ぎて日焼けが気になると足が遠のいた。昔からの数少ない友達も仕事に家庭にとかまけてるから約束もできない。
 通り向こうの改札口に注意する。今年入社の彼女は、使命感に燃える部下だ。予想とおり待ち合わせ時刻の三十分前に路面電車で降り立った。暑い中を隙のない身嗜みは、昔の姿を見ているようで思わず笑みが浮かぶけれど、溜息も零れる。何頑張ってんだろうと、思い重ねて嘆息してしまう。必死な姿は周りを暑苦しくするのが管理職の立場になって気付いた。
 新人彼女は、駅前の日陰で汗を拭っている。野外での活動の注意勧告は出ているが、仕事に追われる身には仕方がない。頃合いを計る。待たせず遅れずを心掛ける。寛容でスマートなイカス上司を目指しているから、この酷暑に涼しい顔で登場しなければ。かれこれ四分の一世紀も昔になるが入社早々、最初についた上司は、行動も気持ちも体育会系だった。平たい顔を想い返しても、ムカつく……、だけ。何処へ出向したかのか記憶にない。クソキモイ上司にならないように注意しなければ。
 そろそろかなと、身嗜みを最終チェックする。訪問先の社長は手強い。長い戦いになるのが目に見え自然と口元が緩んでしまう。新人彼女の憧憬に輝く瞳が今日一の御褒美になるだろう。
 炎天下の歩道で大柄な黒い影が陽炎のごとく揺らいだ。黒猫に見える。連日の熱帯夜でエアコンのお世話になっているが、体質的に相性が悪く少しばかり眠りは浅いから体が怠重い。疲れているからだろうか……。二足歩行の黒い毛並みの黒猫、立ち止まり太陽を見上げて気怠く汗を拭う不思議な光景。通り行く人が気にしないのを見れば幻影なのか。着ぐるみなら。この酷暑にありえないことだ。中は生存生命が危ぶまれる灼熱地獄に違いない。手にぶら下げている奇妙な道具。スマホの望遠を使い検索してみれば、カンテラ……?、真夏の真昼にマジありえない。
 黒猫は新人彼女に話しかけた。驚かない胆力は、見上げていいのか。丁寧な対応に納得。さすがに目を掛けている新人だ。って感心している場合か。不審者ならどうする。いやいや、この状況、ヤバいだろう。
 新人彼女が黒猫と移動を始めた。待ち合わせ時間に余裕があるから道案内か。気遣いできる性格の優しい部下だ。が、これは由々しき事態。
 急ぎ席を立とうとして、不意に眩暈が起こった。意識が飛ぶ……。

 目覚めが最悪。
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