泡沫の立ち位置 北緯東経どこにいるのか判らない 卯花月

文字数 2,470文字

 不幸を謳うあの知り合いを語るのは、願わくば最後にしたい。
 よくある話かどうかは定かでないが、地方から出て一ヶ月。夢に見た楽しいキャンパスライフは、混迷の内に自分の立ち位置を亡失した。その根本的な原因は、同じ年に入学したであろう女子学生、【トウシ】。漢字でどう書くか、最早興味なし。姓なのか名なのか、そんなことは、今更どうでもいい。これからも。
 最初の会話は、摩訶不思議なうちに始まった。
 「わたしは、迷っているのでしょうか……。」

 春、充分に言い含められて送り出された。お祖母ちゃんの七度目の遺言が脳裏をかすめる。
 「都会は、怖いからね。くれぐれも注意するのだよ。」
 住んでいた地方の都市より田舎じゃないかこの大学所在地は。そんなことはどうでもいい。だから、全集中で気を張っていた。それなのに……、愚痴が盛り上がりそうになる。

 話を戻そう。連休前の卯花月だった。学生らが密かに【迷宮のラビリンス】と呼んでいる回廊でトウシから声をかけられた。
 「わたしは、迷っているのでしょうか……。十三号館を御存知ありませんか。」
 同じ館を目指していた。一番奥にある。歩きながら応える。時間が押している。あの教授は、定刻どおりに扉の鍵をかけるヤバアブピーな奴だ。フツーは、そんなのしないだろう。
 「ここは、校舎多いですね。同じような建物だし。方向感覚、ダメなのでしょうね。たぶん……。」
 急いでいるなら、切迫感のある会話が聞きたい。押っ取りとした口調で付き従う姿に眩暈がしそうになる。
 「生徒を迷わせて試練を与えるためなのですか……。哲学的ですね。」
 この都市伝説、誰から聞いたのか、憶えていない。嘘に決まっている。
 「七階ですか。階段なのですね。スミマセン、足が遅いから。」
 気持ちは、既にこの女子学生を振り切っているが、影のように纏わってくる。
 目の前で、講堂の鍵が閉まる音。トウシは、肩を落として佇む。その幼気な仕草に引いてしまう。
 「ゴメンナサイ……。わたし、不幸体質なんです。」
 だいたい、不幸と名乗る女に不幸なのがいた例がない。乗りかかった不幸だ。トウシの腕を引いて非常口から入る。この抜け道、入学して早々に誰から指南を受けた。
 「ええっ……、スゴイですね。センパイ。」
 同じ一回生。隣の席に座るこの女と、講義の内容の拙さに眩暈がする。
 その日は、その講義が最後だった。早く、下宿に戻って独りゆっくりしたいと、そう細やかに願う端から自称不幸女からの誘いが。
 「命の恩人です。お礼をさせて下さい。夕食、ご一緒しませんか。……もちろん、奢ります。」
 財布を握りしめる切ない眼差しに気が遠くなる。雨の中を迷う子犬でもこんなに訴えないだろう。だいたい、ほとんどの善良な学生は、小遣いを大事に始末する。胸の内で溜息混じりに悪態を吐き捨てた。
 真面目な性格が痣となるのか、子供のころから相手の立場を慮れるように躾けられた性格が恨めしい。

 第三学食に立ち寄る。一番近いこともあったが、手っ取り早く事を済ませて独りになりたかった。その学食は、安く巧く人気があるが、全てカロリー高すぎ。運動しても脂肪が燃焼できない年齢に差し掛かろうとする身に恐怖を覚える。
 「……ここ、初めてです。」
 トウシの円らな瞳が輝いている。注文したのは、なんと、カロリーマックスのカツ丼定食。それも大盛。痩せの大食いか。
 「ええっ……、サラダだけですか。もしかして、ワタシを気遣ってくれました。」
 今、この時点で食欲がないのは、目の前の女のせいだ。それに、気遣いなんかする必要はなく理由も探したくない。
 「……センパイ。」
 だから、同学だろう。言い返す力も失せ始める。
 「迷えるワタシを導いてくれました。これからは、センパイって呼ばせてください。」
 その敬語も、やめろよ。だいたい、子供の頃から同性に好かれる体質。これを何と表現すればいいか。これこそ才能って考えたくもない。
 それにしても、食べるのが遅い。食事のペースは、犯罪級だ。苛立ちを見せないように自分の気持ちを宥める。

 会話の第二ラウンドは、不幸のリバイバル。開始される。
 「ワタシの不幸は、いつ始まったのでしょうか。」
 知るかぁ。だいたい、会ったばかりの同学に深刻噺するか。
 「話せば長くなりますが、センパイなら……。」
 出るわ出るわ、トウシの羅列する不幸噺に際限がない。これ程の体験を重ねて、そのマイペース。それは、それで納得し尊敬しそうになる。
 唐突に移る悪意のない話題が、大きく溜息をつかせる。
 「ところで……。センパイは、カレシいますか。」
 それは、尋ねてはいけない禁句だ。人生十九年、男と付き合ったことがない。男嫌いと思われている。クールな言動が誤解されているに違いない。その気になれば、甘えることだってできる。たぶん。試す機会は、今のところ残念ながら訪れないが。幸せと災いとは、このように気付かぬうちに忍び寄るものだ。いずれ必ず、たぶん。悟ってどうする。
 「ええっ……、知的で素敵なのに。男子、見る目ありませんね。ボーイッシュなマッシュカット素敵です。憧れてしまいます。」
 質問は、まず自分の状況を話してから尋ねる。これが、会話を進める上での礼儀鉄則だろう。だが、考えたくないが、もし、この女に恋人がいるなら世の不条理に打ちのめされる。
 早く喰ってしまえ。思わず罵りたくなるのを堪える。

 トウシと出逢ってから。自分の立ち位置が判らなくなった。今、どこにいるのか。この場所が必要ないのか、どうしてここに居るのか。今がいつなのか。ここで何を学びたいのか。わたしは、何者なのか、……。
 連休明けに、自己を掘り下げすぎて行方不明になる諸々の探究者の気持ちが解りかけた。これではいけないと、自己を肯定するが。巡り巡って否定している。なぜなのか、そこに帰着する。自分を知ろうとするのは、他者との関係を考察する以前の愚問だ。たぶん……、思考が錯綜する……。何、言ってるんだ……。

 その日の午後も、あの回廊でトウシが迷っていた。
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