初夏に近い場所で 微かに

文字数 1,417文字

 塾から帰ると遅い夕食が残されていた。

 部屋に戻っても、勉強が進まない。
 十八階から見える夜の街の灯りが雨に煙っている。
 ぼんやりと眺めた。
 「……あっ、忘れてた。」
 朝立ち寄ったコンビニに傘を置き忘れているのを思いだした。母に買ってもらった傘だった。独りごちる。
 「失くしちゃ、ダメだよな……。」

 週末の塾帰り、コンビニに向かった。無くなっているだろう。ただ、少し遠回りをして帰りたかった。夕刻に近づく繁華街は、動き始めていた。
 傘立てに見覚えのある傘が入っていた。嬉しさよりも残っているのが意外だった。逆に困ってしまった。小さく溜息を零した。
 店内から出てきた買い物袋を提げた女子が、その傘をとって雨の中に歩き出した。迷いのない後ろ姿を呼び止められなかった。唖然としながらも納得した。あの朝に擦れ違った女子中学生だった。暗い横顔を思い還しながら思った。
 『何に怒っているのかな? ……僕より大変なのかな。』
 自然と笑みが浮かんでいた。
 「笑ったの……、久しぶりだな。」
 呟くと、気持ちが少し落ち着いた。
 アイスを買って帰った。
 その夜は、機嫌がよく見えたのだろう。妹が絡むような嫌味を向ける。短く反撃しながらも、家族四人で囲んだ食卓がいつもと違って感じた。

 その後、何度かコンビニに立ち寄った。同じアイスを買って暫く滞在する時間が気持ちを落ち着かせた。
 あれから、幾度か傘を使う女子中学生を見かけた。自由に生きているような姿に興味を抱いたからのだろう。観察して想像するのが楽しかった。
 少し背が高かった。服装に気を使わないのだろう。誰かの借り物なのか身に付いていなかった。何かに怒っているような暗い表情からの印象は、何度か見るうちに考え直した。
 『必死なんだ……。でも、どうして。』

 或る雨上がり、女子中学生が傘を取らずに帰ろうとした。思わず声を掛けた。
 「……なに?」
 剣のある声が返事を躊躇わせた。警戒する強い眼差し。
 「これ、忘れ物。」
 「……今日、いらない。アタシのでないし。」
 「ゴメン。」
 「……それだけ?」
 「うん。」
 女子中学生は、少し顔を顰めて歩き去った。ジャージの後ろ姿が、拒絶していた。
 『暗い顔しなければ、綺麗なのに。』
 そう思いながら傘立てに置いて帰った。

 それからも、休みの塾帰りにその街まで遠回りした。コンビニで同じアイスを買った。ベンチで食べながら、微かな期待を隠して滞在した。冷たいけど何故か魅かれた。あの女子に逢えるかと淡い妄想を重ねながら。
 重く静かな雨が降り続く夕刻だった。傘を差した中学女子が現れた。買い物を終えて傘を手に振り返った。彼女の冷たい視線が委縮させる。大人のような口調に納得した。
 「……君の傘だったりしてる?」
 「うん。」
 短く返事する。恥じらって視線が逸れた。女子中学生に見詰められる。
 「……幸せさんの傘だと思った。」
 思いもかけない言葉に、返事を失った。短いスカートの裾から綺麗に伸びる白い足が、目のやり場を困らせる。
 「……使わないの?」
 「うん。よければ使ってよ。」
 視線を逸らさずに女子中学生は、つっかかる口調で尋ねた。
 「……中学生?、何年?」
 「三年。君は?」
 「……忘れた。じゃ、使わせてもらいます。」
 彼女は、そう言って雨の中を帰った。迷いのない足取りが安心させる。
 『割り切って生きているのかな。……羨ましい。』
 そう思うと、すこしばかり哀しくなった。
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