翳りゆく海辺の街から 貴女へ 一話

文字数 1,880文字

 あの頃、週末は始発の路面電車で出掛けるのが習慣になっていた。
 独り身に戻った気楽さから、朝早く目覚めると空が白み始めるのを待って部屋を抜け出した。
 週末の早朝で乗客は少なかった。
 市街地を抜け海が見える駅で降りた。昔からの家が立ち並ぶ立ちぶ路地を抜けて松林が続く細長い砂浜を散歩した。河口に突き出た白洲の先端で早朝の海を眺めた。
 その行動が、僕の寂しさを癒してくれていたのだろう。

 海岸近くに喫茶店があった。都会から移り住んだ早期退職のマスターが一人で営んでいた。事情は分からなかったが、早朝から店を開けていた。たまたま前を通りかかり覗いたのが最初だった。古民家を改築した店内の設えの簡素が秀逸で、使う道具や一昔前の音楽は、拘りが窺えて最初から気に入った。マスターの物静かな雰囲気も落ち着けたからだろう。近くを訪れたときは必ず立ち寄った。
 訪れる度、早朝の店に客は自分一人だった。何度目かの時、海が見える窓辺の席から尋ねた。
 「……どうしてだろうね。朝が好きだからかな。」
 マスターの他人事のような返事に僕は、より店が好きになった。

 六月に入り長雨が始まった。梅雨空の下、早朝の波打ち際で独り佇む長い髪の女性を見かけた。後ろ姿の不安定さに足が止まった。そのまま海に入ってしまいそうな儚さがあった。僕の記憶の中で大切な印象となった。
 二度目に見かけたのは、それから少しばかり後の雨降る朝だった。緋色の傘を差して波打ち際を歩く三十路の若く綺麗な女性に、最初は気付かなかった。目鼻立ちが整った色白の相貌は、愁いを帯び心持ち伏せていた。
 通り過ぎて想い出した。振り返り眺めると、後ろ姿に覚えがあった。

 マスターに、女性の特徴を並べそれとなく尋ねた。
 「……誰かな。」
 早期退職のマスターもこの土地に移住して一冬が過ぎたばかりだった。
 「ここ、別嬪さん多いから。どちらの方だろう。……もしかして、タイプなの。」
 「昔、知り合いに似た感じの女性がいたので。」
 僕の作り話に、マスターは興味を示した。
 「そう、いい思い出なの。」
 「少し辛いかな……。」
 「誰でも一つや二つ、置いておきたい思いがあるよ。」
 「そうですね。」
 作り話の中に苦い思い出が重なった。
 「運命なんか信じる歳でもないですが。信じたくなります。」
 「そうだね。棺桶に入るまで夢は捨てちゃ面白くない。それに、人生捨てたものじゃないよ。たぶんね。」
 「僕も、そう思います。そう思いたいですね。」
 「君は、まだ若いよ。」

 次に立ち寄った時、マスターが貴重な情報を用意していた。
 「この前、言っていた話なんだけど。もしかして、近くでお店をされている女性かもしれないよ。」
 その店から少し離れた海に通じる水路の辺りで料理店を出しているのを教えられた。
 「不定期に開けているらしい。美味しいので噂になっている。」
 物静かな三十歳を過ぎた女性が一人で店を出している話だった。僕は、予想もしなかった話に興味を惹かれた。
 「粋な店のようですね。ここらでも、珍しい話なのですか。」
 「そうだね。あの界隈は、昔からのお屋敷とかが多いから。店は、見ないね。」
 「不定期に開けるなんて、何か理由がありそうですね。」
 「どうだろう。この店も、同じようなものだよ。」

 話に導かれるように、その足で回り道をした。海から延びる水路沿いに道が走り、間口よりも奥行きが深い敷地に古い民家が立ち並んでいた。教えられた家は、カナメモチの生垣に簡素な木の門の構えだった。普通の民家のように見えたが、表札代わりに掛けられた【人夢庵】の木札が商売を営んでいる様子を窺わせた。準備中の札が下がり、中は静まり返っていた。
 不定期に営業している噂は本当のようだった。僕は、場所が分かり雰囲気のある店の構えに幸せな妄想をして満ち足りた気分になり帰路に着いた。

 それから何度か立ち寄った。時間を変えて訪れても閉まっていた。

 その朝は、雨上がりだった。水路に掛けられた古い石造りの太鼓橋から店を眺めていた。
 そこに通り掛った買い物籠を手にした砂浜で見かけた女性と再会した。僕は、巡り合えた嬉しさに年甲斐もなく昂る気持ちのまま声を掛けた。
 「突然に失礼ですが。その先で、お店をなさっている方ではないでしょうか。」
 僕の不躾な問い掛けに女性は、明らかに警戒して戸惑った。大きな瞳が怯えていた。
 「今日、お店は開けますか。」
 「……いぇ、ごめんなさい。」
 女性は、消え入りそうな返事を残し頭を下げると足早に離れた。

 見送る僕は、子供のような失態に気付き溜息をついた。
 
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