翳りゆく海辺の街から 貴男へ 二話

文字数 1,565文字

 それからは、石橋の近くを通ると男性の姿を探すわたしがいた。途切れた話の続きを交わさないと気持ちが先に進めないような切ない思いになっていた。
 「……どうして、若い娘じゃないのに。」
 わたしは、そう呟いた。

 或る日の買い物に向かう途中、石橋の頂で立ち止まり水路を眺めた。長く住んでいるのに、よく見た記憶がなかった。水路の先に自分の屋敷が目に入った。
 「……あぁ、そうか。」
 わたしは、気付いた考えに思わず声に出していた。あの年上の男性が眺めていたものが見えると、もう一度会わなければいけない気持ちが募った。そう考えていると、昔の御姉さまから言葉が蘇った。
 ──一期一会とは、辛いものかしら。
 謎掛けのように話した。
 ──人とのご縁は、逢うべくして逢えるものじゃないかしら。その人に必要なら逢える。そういうものだと、わたしは思っているの。
 そう思い還すと、少しばかり気持ちが楽になった。
 「そうでした。……御姉さまは、わたしを見ていてくれたましたね。」
 その日の買い物は、鱧を探した。御姉さまが好んだ初夏の食材だったから。

 店に一枚の油彩画が掛けられていた。絵画に詳しくなかったが、暗い色調の小雪が舞う冬の海を描いた風景画は、最初からわたしを魅入らせ虜にした。絵の謂れ尋ねても御姉さまは、優しく微笑むばかりで話してくれなかった。
 或る客人が、その絵に驚き暫くは言葉もなく鑑賞していたことがあった。わたしが、それとなく伺うと、中年の男性から逆に尋ねられた。
 「これは、女将が。」
 「いいぇ、先代の頃から掛けてあります。」
 「そうでしたか。」
 客人の称賛は、後々にまでわたしを幸せにした。
 「見事なご馳走の持て成しと、この絵を選んだ御方の気持ちに感服しました。」
 その絵画が、稀な作家の作品で高価なのを知ったは、それから幾つも梅雨の季節を超えた後だった。御姉さまの拘った絵画が、どのような経緯を辿ってこの場所に落ち着いたのか想像するだけでも楽しかった。
 わたしは、何もしないで店のカウンターで独り座り時を過ごすときにその絵画をぼんやりと眺めた。或る時、わたしは、ふと思った。御姉さまは何も語らなかったが、御姉さまもこの店を誰かから譲り受けたのだろうかと。
 「……どんな人だったのかな。」
 考えを重ねていくと、少し息苦しくなってもわたしは幸せだった。
 「わたしを、導いてくれたのだから。感謝しかないわね。」

 気持ちはざわついていたが、鱧を使った料理は素直に仕上がった。
 門の札を掛けなおそうとして思い留まった。道を横切って水路の縁に立った。静かな水面を眺めていると、雨が落ち始めた。わたしは、着替えて緋色の傘で海辺の散歩に赴いた。

 わたしは、待ち人の想いを知った。あれからは、海辺の散歩のときは、必ず石橋に立ち寄った。あの年上の男性を見かけることはなかった。少しの後悔と罪悪感が、わたしの迷う気持ちを揺らがせた。
 「……そうよね。ドラマのようには、いかないわ。」
 そう納得する頃には、梅雨も終わりに近付いていた。
 わたしは、旅の準備を始めた。行き先を決めない気儘な一人旅だった。それでも、毎年、最初に立ち寄る場所があった。御姉さまと訪れた山深い温泉宿だった。梅雨が明ける高原の避暑地は、世界が改まったように迎えてくれた。
 宿の女将は、予約せずに訪れても奥離れの部屋を用意してくれた。最初に訪れた時から、その持て成しの所以をわたしなりに納得していた。それまで培ってきた絆が成し得る信頼だったのだろうか。御姉さまは、理由を最後まで話してくれなかった
 わたしが独りになっても、立ち寄ると同じ部屋に通された。静かな渓流の見える奥座敷は、わたしが物思いに耽るのを優しく手伝ってくれた。

 その年、わたしは、季節の変わり目に降る纏まった雨の前に旅立った。
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