泡沫の立ち位置

文字数 3,595文字

 海辺の住宅街の奥まった一角に下宿があった。高度成長期に建てられた築五十年を過ぎようとするモルタル二階建てのアパートは、元々が民家だった。一階を仙人のような大家が住み二階を四つの部屋に改築していた。
 古色蒼然な状態を見て父は難色を示したが、母は意味不明な笑みを浮かべて決めた。自分の学生時代の苦学生活を想い重ねていたのだろうか。
 わたしは、特に拘りがなかった。潔癖症でもなく外見を気にする性格でもなかった。利便性で選んだ。近くに路面電車の駅があり大学までは三十分と掛からなかったから。

 隣室の年齢不詳の中年男は、ケンと通称で名乗った。アパートの主らしいむさ苦しい好漢だった。天気の良い日は、早朝から仕事に出掛けた。雨の日は、部屋で過ごす様子から職種の想像がついた。
 六月に入り梅雨が始まると、ケンは部屋にいることが多くなった。それまでは、顔を合わせれば挨拶を交わす程度だった。黄昏時に階段の途中で一緒になった。
 「学校帰りかい。……バイトか。」
 わたしが、近くのコンビニでバイトをしているのをケンは知っていた。
 「頑張っているんだ。この後用がないなら、どうだい。付き合わないか。ちょい、良い酒が手に入ったんだ。」
 人付き合いは悪くないが、物臭な性格からか。大学に入っても、未だ親しい友達は出来なかった。明日は、午後からの講義か一つだけだった。気持ちの余裕からケンの大らかな性格に誘われるままに乗った。酔った勢いで襲われることもないだろうと、護身術を心得ているわたしは思った。幸いにも試す機会に恵まれなかったが。わたしの複雑な心配を加護するかのようにケンは、諭した。
 「学生は、遠慮するなよ。これは、昔からの理だ。」
 ケンの部屋は、殺風景だった。何も置いていない室内にわたしは、驚きながらもしがらみのない生活形態に憧れのようなものを抱いた。
 「何もないだろう。驚かせたか。」
 ケンの自慢げな様子が微笑ましかった。
 「若い頃は、捨てられない性格でね。部屋がゴミ屋敷だった。」
 今のケンを見れば、心境の変化が知りたくなった。
 「歳を取ると、身軽な方が楽だからな。」
 中年の悟ったような物言いに内心苦笑した。
 「そのことに気付かせくれたのは、野暮な話になるか。……まぁ、感謝しないとな。」
 理由を含ませるケンの遠い目が大人に見えた。
 木箱入りの焼酎は、酒類に詳しくないわたしの目にも存在を主張していた。
 「なかなか手に入らないよ。気にするな。貰い物だ。」
 高価な希少品を送る相手を想像していると、ケンが屈託なく笑った。
 「貰い物は、有り難く早々に頂いてしまわないとな。先方の気持ちが残っている間が一番美味いんだ。」
 その理屈に思わず笑みを零した。
 「いずれ分かるさ。」
 未成年のわたしは、酒に慣れていなかったが、付き合い程度の嗜みは心得ていた。ケンの酒は、急ぐこともなく場を楽しむ陽気な酒に安堵した。生き様を映しているようにも思えた。
 「休みは、こうして過ごすのが最高だ。」
 気持ちよく酔って楽しく語るケンに魅せられた。
 話が進み程よく酔いが回った。よもや話の中で、わたしは入室以来気に掛かっていることを持ち出した。
 「隣は、空き部屋ですよね。」
 「おぅ、そうだ。」
 「時々、誰かいるような気配を感じるのですが。」
 ケンは、手に持った紙コップを止めて声を出さずに笑った。
 「……脅かすなよ。ずっと使っていないぜ。」
 「誰も使っていないって、どうしてですか。」
 「あれだ。」
 ケンは、声を潜めた。
 「たぶん、事故物件だろう。」
 背筋に悪寒が走った。わたしは、困惑気味に顔色を失っていたかもしれない。
 「揶揄っていますか。」
 「いやいや、マジ噺って。」
 ケンは、自分が部屋を使い始めた頃から空室でそれ以後も一度も入室していないと語った。長い歳月を経ている話が、真実味を帯びて聞こえた。
 「それ以外に、考えられないさ。」
 わたしは、不可思議な話を聞きながら、ふと、その部屋の扉の上に天井に一抱えもある大きな朱色の丸い染みがあるのを想い出した。
 「そういえば、隣の扉の上に朱い丸い染みがありますね。」
 「気付いたかい。絵の具で描いたようだよ。」
 「絵の具って、誰が、ですか。」
 「昔、その部屋に住んでいた人が描いたらしいよ。」
 「どうしてなのでしょう。」
 「さぁね。詳しくは知らないが。」
 「いつ頃の話ですか。」
 「この二階をアパートに改築して直ぐだったんじゃないかな。たぶん。」
 「それにしては、つい最近、塗ったように生々しく見えますが。」
 「不思議だろう。」
 「何故なのでしょう。血だまりに見えます。」
 「怖ぇこと言うなよ。俺には、夕日に見えるな。」
 夕日よりも朱い満月に思えた。よくよく考えると、大きな瞳のようにも感じた。そう思うと、より不気味さが増した。
 ケンは、噂話だと断ってから少し声を落とした。
 「部屋の中の壁にも大きな丸い模様が描いているらしいよ。ちょうど、アンタの部屋と接する壁じゃないかな。」
 「どういう人です。そこを使っていたのは。」
 「美大志望の浪人生と聞いたかな。」
 出所不明の噂話を見てきたように語るケンに引き込まれ、何時しか納得していた。
 想像力を逞しくしたからだろう。その後の酒は、不味くなった。酒の上の与太話と捉えるには生々しかった。
 それからも、雨の日は誘われるままにケンの休日に付き合った。雨の休日を楽しむケンの拘りがない姿にわたしは、いつしか尊敬に似た感情を抱いた。世の不条理を愚痴ることなく達観するケンから色々な良識を得る機会になった。

 七月に入った雨の夕刻、隣の扉の前にメイドが立っていた。天井を見上げる様子に異様な感慨を受けた。その雰囲気に凍り付き足が竦んだ。驚きが過ぎると、そのメイドの顔に見覚えがあるのを想い出した。時々、一階の大家を訪ねていた。
 メイドが天井を見上げる異次元な景色の中、状況がつかみ切れずに困惑していると、メイドはわたしに視線を移した。化粧の仕方か、人形のような無機質な容貌にたじろいだ。
 「これ、どう観ます。」
 わたしは、相手に引っ張られるような想いのまま言葉にしていた。
 「はぁ……、満月ですか。」
 「それ、ヤバイでしょう。」
 メイドの逸らさない視線が、わたしを圧倒した。鷹揚の少ない喋り方も機械仕掛けのように生気がなく怯えさせた。
 「満月は、人の意識を迷わせるのですよ。」
 わたしは、摩訶不思議なメイドに身構えた。手に汗を握る。ヤバイ奴に違いない。容姿から判断するのはいけないが、そう思った。論理を越えた自己完結型の会話は、警戒に値する。それなのに、蛇に睨まれた蛙のごとく委縮した。
 「人の想いだけでなく、人そのものを取り込むのですよ。」
 メイドの冷たい視線の奥底に引き込まれそうになっていた。このままなら犯されると、わたしは不意に意識が遠退きそうになった。
 「結界を張り直さなければ。」
 畳み掛けるようにメイドは、話を続けた。
 「気付かれたのは、幸いだと思いたまえ。」
 突如、話を一方的に終了してメイドは立ち去った。呆然と思考停止する私の前に、ケンが、レジ袋を提げてスーパーから戻った。
 「どうした。幽霊でも見たような顔だな。」
 ケンの揶揄いは、わたしを気遣ってのことだったのか目が笑っていた。扉の前に佇んだまま顔面を蒼白に引き攣らせていたのだろう。わたしは、縋るように訴えた。
 「メイドが、いました。このドァの前に、メイドが、いました。」
 「来ていたのか。」
 「ええっ……、ケンさんの知り合いでしたか。カノジョは何者です。」
 「彼女も飲み仲間かな。」
 「高校生でしょう。」
 「いゃ、結構齢喰っているはずだが。」
 わたしよりも年上であるケンの説明が信じられなかった。
 「……揶揄っていますか。」
 「俺も、最初は魂消たよ。」
 ケンは、昔に出会ってからメイドの容姿が変わっていない説明をした。若作りしているように見えなかった。わたしは、混乱する気持ちを保とうと意味不明な発言をした。
 「カノジョ、何時も、あの格好ですか。」
 「まさかぁ、メイド喫茶の衣装らしいよ。今度、二人で冷やかしに行くかい。」
 その後、何度か大家を訪れるカノジョを目撃した。いつもメイド服姿だった。メイド喫茶に向かう途中なのか、仕事帰りなのか見解不可だった。普通は、向こうで店で着替えるだろう。わたしは、メイドを見かける度に気付かれないよう身を隠した。

 それからも、壁越しに空き部屋からの気配は続いた。母譲りで元々が神経質ではなく、慣れてしまうのか、何時しか気にならなくなった。大学に通いバイトをして、雨の日は隣人の休日に付き合い、満月のような朱い図柄を妄想しながら飲み語る日が重なった。
 話題に事欠かないこのアパートで、この先も住み続けるように思えるのだった。
 
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