翳りゆく海辺の街から 貴男へ 一話
文字数 1,988文字
昔からアメフラシと呼ばれた。雨が好きだったから、少しも気にならず、むしろ嬉しかった。陰口を叩く人もいただろう。そのような悪意のある身勝手な言葉は、どうでもよかった。
無口な人に雨は似合うと、御姉さまが言ってくれた。わたしの気持ちを少しばかり弄んで。それだけで、励みになったから。
石の太鼓橋で佇む男性を初めて見た。少し年上の見かけない顔だった。散歩途中のような気軽な格好に近所の方かと思った。雰囲気が、幼い頃の知り合いにどこか似ていた。
通り過ぎようとして、突然に話しかけられた。わたしは、驚き困惑した。そのようなことに慣れていなかったから。警戒する子供のように買い物籠を胸に抱いて怯えてしまった。悪意のない言葉と優しい眼差しなのに。
「……ごめんなさい。」
わたしは、それだけを返し足早に立ち去った。
少し離れてから、失礼な返事と行動に気付いた。
「子供じゃないのに……、バカなわたし。」
裏口から家に入ると、カウンター席で座り込んだ。その日は、店を開けようと準備をしていた。でも、男性との遣り取りを何時までも引き摺ってしまった。
その日に作りたいものだけを料理した。独りで食べきれない分を訪れる客人に用意した。客人を持て成す店のカタチは、御姉さまから受け継いだものだった。
大学生の頃、近くで下宿していた。路面電車の駅に向かう途中のその家からは、気持ちに寄り添うような懐かしい料理の匂いを漂わせていた。奥ゆかしい大きな屋敷に想像を膨らませた。地味で目立たない門の柱に掛けられた【人夢庵】の文字が学生のわたしを深く考えさせた。
わたしは、御姉さまとの出逢いを一生の宝物にしている。
小糠雨が止んだばかりの夕刻だった。大学の帰りに門の前で打ち水をしている三十歳半ばの綺麗な女性を見かけた。視線が合ったわたしは、反射的に目礼をした。墨染の着物姿の女性は、優しい笑みを返した。
「よくお見かけします。学生さんですか。」
物静かな柔らかいな声音に、わたしの足が止まった。向こうが知っているのが嬉しかったからだろう。思わず言葉は飾らずに本音を口にしていた。
「ここを通るとき、とても美味しそうな匂いがします。」
わたしは、初対面の年上の女性に不遜な言葉を向けているのに気付き謝った。
「……すみません。失礼な言い方でした。わたしって、なに言っての……。」
「料理屋なのですよ。」
笑顔で招かれた。門を潜ると、飛び石が配置される庭になっていた。その頃は気付かなかったが、茶室に誘う庭の設えだった。奥の棟は、カウンター席の店だった。内装が簡素ながら品格よく整えられていた。
「一人の夕食も味気ないと思っていたところなの。ご一緒して頂ける。」
一品ずつ用意される持て成しにわたしは、感動で最後は涙ぐんでいた。御姉さまは、わたしの気持ちを優しく受け取ってくれた。
わたしとの出逢いを御姉さまは、どのように見ていたのだろうかと、いまでも考えることがある。その後の成り行きで店に遊びに立ち寄ることになった。一緒に料理を作る楽しさと尊さに魅入られた。
わたしに隠れた才能があったのか、教え方が上手だったのか、今では訊ねることはできない。もし聞けたとしても、御姉さまは、あの優しい笑顔ではぐらかしただろう。
初めて料理を持て成したのは、十代最後の日だった。
「今日、お客様がいらしたら。任せてもいいかしら。」
恥ずかしがり屋わたしは、その突然の申し出に驚きながらも嬉しかった。御姉さまのお気に入りの着物が用意された。
「良く似合う。……嬉しい。」
後で知ったが、その着物は御姉さまが十代の頃に仕立ててもらった大切な想い出の品だった。
「貴女のままで。」
御姉さまは、そう優しく告げて奥に消えた。
御姉さまと出逢った夕刻の持て成しを想い返して準備した。
立ち寄ったのは、初老の紳士だった。馴染みの客だったのだろう。御姉さまの代わりのわたしを見ても驚かなかった。
その夜は、静かな雨が降っていた。料理のテーマを【雨降らし】にした。
わたしが用意する品は、稚拙だった。それでも、あの時に出来る限りの努力を尽くした。
最後の品を終えると、紳士は静かに称賛した。
「女将の心使いに感心させられました。」
わたしの手の品書きを懐に収めた。紳士は、白い封筒を置いて立ち去った。それからも、紳士は時折立ち寄ってくれた。
夜も更けて、御姉さまが奥から戻った。
「そろそろ閉めましょうか。お願いね。」
わたしは、門柱に準備中の札を掛けて門に閂を通した。
御姉さまは、紳士が置いていった封筒をそのままわたしに預けた。
「これは、貴女が貰ってね。」
中には、相応の紙幣が納められていた。わたしは、今でも最初の封筒を大切にしまっている。
その後、独り身の御姉さまから譲り受けた店を引き継いで移り住んだ。二十七歳の初夏だった。
無口な人に雨は似合うと、御姉さまが言ってくれた。わたしの気持ちを少しばかり弄んで。それだけで、励みになったから。
石の太鼓橋で佇む男性を初めて見た。少し年上の見かけない顔だった。散歩途中のような気軽な格好に近所の方かと思った。雰囲気が、幼い頃の知り合いにどこか似ていた。
通り過ぎようとして、突然に話しかけられた。わたしは、驚き困惑した。そのようなことに慣れていなかったから。警戒する子供のように買い物籠を胸に抱いて怯えてしまった。悪意のない言葉と優しい眼差しなのに。
「……ごめんなさい。」
わたしは、それだけを返し足早に立ち去った。
少し離れてから、失礼な返事と行動に気付いた。
「子供じゃないのに……、バカなわたし。」
裏口から家に入ると、カウンター席で座り込んだ。その日は、店を開けようと準備をしていた。でも、男性との遣り取りを何時までも引き摺ってしまった。
その日に作りたいものだけを料理した。独りで食べきれない分を訪れる客人に用意した。客人を持て成す店のカタチは、御姉さまから受け継いだものだった。
大学生の頃、近くで下宿していた。路面電車の駅に向かう途中のその家からは、気持ちに寄り添うような懐かしい料理の匂いを漂わせていた。奥ゆかしい大きな屋敷に想像を膨らませた。地味で目立たない門の柱に掛けられた【人夢庵】の文字が学生のわたしを深く考えさせた。
わたしは、御姉さまとの出逢いを一生の宝物にしている。
小糠雨が止んだばかりの夕刻だった。大学の帰りに門の前で打ち水をしている三十歳半ばの綺麗な女性を見かけた。視線が合ったわたしは、反射的に目礼をした。墨染の着物姿の女性は、優しい笑みを返した。
「よくお見かけします。学生さんですか。」
物静かな柔らかいな声音に、わたしの足が止まった。向こうが知っているのが嬉しかったからだろう。思わず言葉は飾らずに本音を口にしていた。
「ここを通るとき、とても美味しそうな匂いがします。」
わたしは、初対面の年上の女性に不遜な言葉を向けているのに気付き謝った。
「……すみません。失礼な言い方でした。わたしって、なに言っての……。」
「料理屋なのですよ。」
笑顔で招かれた。門を潜ると、飛び石が配置される庭になっていた。その頃は気付かなかったが、茶室に誘う庭の設えだった。奥の棟は、カウンター席の店だった。内装が簡素ながら品格よく整えられていた。
「一人の夕食も味気ないと思っていたところなの。ご一緒して頂ける。」
一品ずつ用意される持て成しにわたしは、感動で最後は涙ぐんでいた。御姉さまは、わたしの気持ちを優しく受け取ってくれた。
わたしとの出逢いを御姉さまは、どのように見ていたのだろうかと、いまでも考えることがある。その後の成り行きで店に遊びに立ち寄ることになった。一緒に料理を作る楽しさと尊さに魅入られた。
わたしに隠れた才能があったのか、教え方が上手だったのか、今では訊ねることはできない。もし聞けたとしても、御姉さまは、あの優しい笑顔ではぐらかしただろう。
初めて料理を持て成したのは、十代最後の日だった。
「今日、お客様がいらしたら。任せてもいいかしら。」
恥ずかしがり屋わたしは、その突然の申し出に驚きながらも嬉しかった。御姉さまのお気に入りの着物が用意された。
「良く似合う。……嬉しい。」
後で知ったが、その着物は御姉さまが十代の頃に仕立ててもらった大切な想い出の品だった。
「貴女のままで。」
御姉さまは、そう優しく告げて奥に消えた。
御姉さまと出逢った夕刻の持て成しを想い返して準備した。
立ち寄ったのは、初老の紳士だった。馴染みの客だったのだろう。御姉さまの代わりのわたしを見ても驚かなかった。
その夜は、静かな雨が降っていた。料理のテーマを【雨降らし】にした。
わたしが用意する品は、稚拙だった。それでも、あの時に出来る限りの努力を尽くした。
最後の品を終えると、紳士は静かに称賛した。
「女将の心使いに感心させられました。」
わたしの手の品書きを懐に収めた。紳士は、白い封筒を置いて立ち去った。それからも、紳士は時折立ち寄ってくれた。
夜も更けて、御姉さまが奥から戻った。
「そろそろ閉めましょうか。お願いね。」
わたしは、門柱に準備中の札を掛けて門に閂を通した。
御姉さまは、紳士が置いていった封筒をそのままわたしに預けた。
「これは、貴女が貰ってね。」
中には、相応の紙幣が納められていた。わたしは、今でも最初の封筒を大切にしまっている。
その後、独り身の御姉さまから譲り受けた店を引き継いで移り住んだ。二十七歳の初夏だった。