泡沫の立ち位置 北緯東経どこにいるのか判らない 早苗月

文字数 2,823文字

 トウシに遭遇しないよう回廊を避ける。
 それが、新たな始まりだった。

 七号館の裏を急ぐ、回廊を通らないから、通常の三倍の速度で急ぐ。
 行く先に倒れている女子学生が目に飛び込んできた。
 倒れているじゃないか。摩訶不思議な連続。確率的にも有り得ないだろう。
 急ぐ身だから周りを警戒しながら近づく。スマホで学生課に連絡しようとして考えた。
 これは、救急車か。それとも……。そう、微かに迷ったのが、災禍だった。
 倒れている女子学生の手が、空中の何かを摑もうとするような動きに見入ってしまいそうになる。
 自分に言い聞かせる。生きてる。生きてるなら、大丈夫だ。大丈夫ならスルーしてオーケイ問題ない。目に入らなかったと無視する。これは許されるだろう。少し大きく迂回して通り過ぎようとした。
 「……そこを行く方。」
 時代劇か、行き倒れの旅人でもこれ程の見事な訴えはしないだろう。
 急ぐのに立ち止まりそうになる。足が他人のように重い。ここは、聞こえなかったとして心を鬼に。
 そこに、真向いから陽炎のように迫る長身の女子学生。
 右を抜けようとして行き合う。左で、また行き合う。何度か試みてもお互いが行き交えない。
 「……困りますね。」
 静かな鷹揚のない声音。逆光で怖い。この場合は、強く出る。強面で、言い切る。
 「急ぎます。」
 「……いいぇ、わたくしも。」
 お互いに進路が重なる。何故か。まるで自分の影と対峙しているようだ。動きを停めて相手に忠告を与える。
 「じっとしていて下さい。自分が動きますから。」
 「……不思議なこともあります。」
 「はぁ!、はぁ?」
 「……わたくし、よくこうして行き交うのが困難なことがあります。」
 上品な物言いを耳にして心が折れそうになる。焦燥や苛立ちや怒りや失望を越えて。講義に急ぐ身を忘れそうになった。
 見た目が上の学年、その状況での落ち着きようが警戒させる。一応、敬語を使う常識は残しているからお伺いを立てる。
 「ええっと、上級性ですか。お急ぎのようですが。」
 「留年中です。タマコです。」
 どうして名乗る。相手が悪かったか。説明を聞き理解する時間がない。対応をミスったか。慌てて訂正。軌道修正。十秒深呼吸、気持ちを落ち着かせていると、影の長身から当然のように質疑提案された。
 「……それよりも、そこの昏倒している学生。貴方なら、どうなさいます。」
 「ああぁ、では、お願いします。」
 「……それ、良心痛みますね。」
 知るか。細い眼が冷淡に煌めき距離をとりたくなるが、ここは堪えて大人の対応。
 「それよりも、私どものこの状況が問題かと思いますが。」
 「……目前のこれを置いてのあなたの定義。それを正しいかは別としましょう。手を。」
 手を前で繋がれる。繋いだ手のまま軸に反時計回り。
 「……これでいいですね。すべて、我々の問題は解消しました。」
 「そうですか。急ぎますので、これで。」
 そう言い残して長身の女子学生から離れる。安堵感に足が軽い。少しばかり通り過ぎて、はたと想い出した。振り返り後ろ歩きしながら……、確認する。
 女子学生は、まだ倒れたままだった。あの留年生、放って行ったかぁ、既に先の建物の陰に消えつつあった。
 どうすればいいのか。立ち止まていた。
 倒れたままの女子が、手で何か合図している。お節介でないが、見捨てておけない難儀な性格は、父譲りだ。母なら間違いなく立ち去り短期記憶にも残さないだろう。溜息をついて自分に言い聞かせる。講義が遅れたなら非常口を使おう。と
 恐る恐る引き返し傍に屈む。女子学生が指で空中に何か描いている。このような場合、第一声は、決まっている。
 「大丈夫ですか……。」
 指の動きが、空中でピタッと止まった。
 「これが、大丈夫に見えましょうか。」
 知るかぁ。では、大丈夫ならこれで。立ち去ろうとする足首を掴まれた。ホラーか……ぁ。背筋を走る悪寒と、つい最近見たスプラッシュ動画が脳裏をかすめて怯える。この展開は、ヤバメのヤバイ二乗だ。倒れたままの女子のセリフに思えない。
 「このまま、見捨てれば、後悔いたします。」
 「ええっと、演劇サークルですか。」
 「マン研です。」
 ああっ、何の会話している。この状況は、一刻を争うはず。急病なら救急車。揶揄うなら鉄拳制裁。組み伏せ絞めてヘブンに落とすのもアリか。いやいや、ここは冷静に。そして少しばかりの寛容を向ける。我慢して再考。やはりこの場合、直で救急車。学生課でいいのか。警備員に知らせる手もあるが……。数々の思考が一つの頭の中で混濁する。
 「取り敢えず、手を離してもらえますか。」
 「暴行罪で、訴えますか。」
 「いゃ、そうでなく。」
 溜息を堪え手を取り腕で支えて起こす。何故か王子が王女を抱えるような姿勢になってしまった。女子の見つめる瞳が熱く言葉を放つ。
 「ジークフリート様……。」
 「……はぁ?」
 周りを見るが他人の気配もない。返事に屈していると追い打ちが襲う。
 「貴女様は、命の恩人です。」
 つい最近、同じセリフに戦慄したのを想い出した。これでは、わたしが不幸体質になってしまう。腕の力が抜けそうになる女子の重み。いったい何を装備しているのか。
 同性に見詰められる。縋るような眼差しに気が遠くなりそうになる。しかし、この女子、重い。片腕の力が尽きかけて腕を持ち替えようして。思わず彼女を地面に落としてしまった。仰向けに倒れ込む女子の、虚ろな瞳と広がった長い髪が水面を漂う若芽に見える。悲しみの切実なセリフが続いた。
 「……ああぁ、見捨てられました。」
 「いやいや、アンタね。」
 上級生だと見て、取り敢えず敬語にかえた。
 「人、呼びましょう。」
 女子は、再び片腕を空に伸ばして指先が動き出した。これって、ヤバいしょ。この指の動き、何かで見た。記憶を急いで呼び起こす。九字かぁ……。
 「……九字なんか切っている。」
 突然、背後から女子の声。此奴、腹話術師か。恐る恐る振り返ると、同じ女子の姿。同じ顔、髪形、同じ服。ドッペルゲンガーかぁ。後ろで立つ学生と地面に横たわる学生を交互に見比べ納得する。混乱と疑惑とに迷いながら間抜けな問いを投げ掛ける。
 「ええっと……、双子さんでいいのですね。」
 「それが、何か。」
 背後から女子の視線が冷たい。近頃では希少絶滅危惧種の超絶美貌だけにより怖い。
 「妹は、待ち合わせで必ず横になります。」
 「はぁ、そうですか。大丈夫ならこれで。」
 これ以上は係わりたくない。急ぐ我が身こそが愛おしい。追い立てられるままに逃げ走る。
 その日の講義は、色々ありすぎたから居眠りもできなかった。

 下宿に帰り、着替えもできずに畳の上で体を投げ出して呆然と過ごした。
 夜のコンビニのバイト迄、巡る想いに引き摺られながら気持ちがダダ下がる。隣の空室から壁越しに何かを引っ搔く気配が微かに伝わる。壁を蹴り上げて罵りたくなる気持ちに耐えた。
 
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