第22話 宮本浩次 其の1~未知との遭遇 ~
文字数 2,248文字
みなさんこんにちは。甘らかんと申します。1967年2月生まれ、みずがめ座のA型です。
1982年、初めてのライブ。日本武道館でオフコース10DAYSを目撃した高校1年生のときからJ-POPにどハマりし、それは2000年、東京ドームでLUNA SEA THE FINAL ACTまで続き、それまでに参加したアーティストさんのライブはご紹介しただけで14組、吉川晃司とCOMPLEXを分けるなら15組、実はTM NETWORK小室哲哉ソロのライブも行っているので、それを合わせれば16組×公演回数になります。
1980~2000年のあいだにおいて、多いのか少ないのか平均値なのかわかりませんが、この間の自分は10代~30代半ばという人生で一番フットワークが軽かった時期。すべての推しに愛を注ぎ、ライブに通うのは楽しくて仕方がなかった。
そんな私が2000年を境にパタッとライブ通いを停止し、それが20年続いたところから話ははじまります。
*
LUNA SEA THE FINAL ACTが終わったとき。
【もうライブに行きたくなるほどのバンドは現れないだろう】
という予感と。
【そういえば、小説家になりたいという自分の夢はどうした?】
という現実が同時におぶさってきた。
西暦2000年。34歳世代でした(早生まれなので私は33歳)。
【いい加減、タイムリミットじゃないのか?】
背中が重い。夢からさめたら目の前は現実の荒野。
*
そこから40歳になるまでは何か書いては投稿の日々。
自分もなにか残さなければ。自分の存在意義を示さなければ。などという偉そうな心があったかはよくわからなかったが、自分がしなくてはならないことに集中させて欲しい30代後半だった。
そんな折、バブルがはじけて契約社員で働いていた会社で人員削減が始まる。一緒にライブに行っていた同僚たち。みんな離散した。みんな行方知れずだ。
私もその会社を追われ、派遣社員になり新しい会社で働くことになった。四捨五入で40歳になっていた。
【猶予がない。早く自分をどうにかしなくては】
このあたりから、人生の焦りはさらに肥大する。40歳手前で、これで勝負だという作品を大手出版社の長編賞に応募する。【悪の秘密結社オテフセ団】というタイトルはいまでも気に入っている。自分が書いたもののなかではいちばん愉快なタイトルだったし、筆も乗っていた。
しかしながら、結果は最終選考一歩手前の2次選考通過止まり。
【終わったわ】
成功とは一握りの人間に与えられるもので、その他ほとんどの者はレールから外れたり落とされたりが当たり前の世界。奇麗ごとが嫌いだからこそ納得しなくてはならない事実である。
*
同級生の年賀状はファミリー感満載。運が良ければ切手シートが当たる資源ごみを眺める正月。人生は折り返しに来ていた。
精神科に通うほどに結婚という選択肢はゼロである自分には、【老後のために仕事で頑張って金稼ぐしかない】。という考えしか浮かばなかった。
40~50歳は会社という仕事に振り回されるだけの10年。
仕事内容は興味深く、いい同僚たちにも恵まれたが、労働条件が過酷で、終電帰りあたりまえ、深夜のタクシー帰り、土日の出勤もあったり、それでも翌日はにこやかにに出勤しなくてはならない。
それでも他にすることもない。ひたすら働いてお金を稼いでいくことを生きがいとしよう。
終わりが見えない残業50時間超の日々。45歳あたりから心身ともに動かなくなっていく。やっと世の理不尽を感じたときにはもう遅く、上司からのパワハラを受け、あげくクビになって放り出された。
そんなことがあったので、2020年になってはじめてエレカシの【奴隷天国】という楽曲を聞いたときは愕然とした。この10年間のことを斜め上から皮肉られていたからだ。
人生後半、会社の奴隷になって喜んでいた馬鹿な自分に向けられる歌を当時20代のエレカシに【お尻ペンペン】されている。
エレカシがこんな凄い楽曲作っていたとは。それを知ったのが2020年になってだった。それもまた皮肉。
*
50歳になって会社から二度と来るなと追放されたが、幸い次の仕事はすぐ決まった。2018年のことだ。
新しい会社は9時~17時で残業はなく、収入は減ることになったが、疲労しきった体と精神は徐々に落ち着きを取り戻しはじめた。夜の時間にテレビを見るということまでできるようになった。すっかり忘れていた音楽にも触れる機会もできた。いま、こんな人たちが流行っているのか。いいねと思ってもピンとは来ない。
10年間、社畜をしていたので仕事以外の世界でなにがあったのかわからなくなっていた。
自分が推してきていたアーティストたちがすでに【懐メロ】と言われていることに呆然としながら、新宿のビル街見上げて【これからどうしたものかな】と途方に暮れる。
それでも、夜ご飯を自炊できる時間に帰ることができて、世の中で起きていることを確認するためにニュース番組まで見られる日常は50歳過ぎにはやさしいものだ。
このまま日本茶飲みながらのんびりと時は過ぎていくのだろうな。そう思っていたときだ。
【借りものの命がひとつ 厚かましく使い込んで返せ】
その楽曲は1日の終わりにやってきた。
なにそれ、すごくいい歌詞。
重い腰がゆっくりとあがる。
ニュース番組のエンディングに流れた【獣行く細道】の一節が、宮本浩次沼への第一歩だった。
一話完結できないので~続く~
1982年、初めてのライブ。日本武道館でオフコース10DAYSを目撃した高校1年生のときからJ-POPにどハマりし、それは2000年、東京ドームでLUNA SEA THE FINAL ACTまで続き、それまでに参加したアーティストさんのライブはご紹介しただけで14組、吉川晃司とCOMPLEXを分けるなら15組、実はTM NETWORK小室哲哉ソロのライブも行っているので、それを合わせれば16組×公演回数になります。
1980~2000年のあいだにおいて、多いのか少ないのか平均値なのかわかりませんが、この間の自分は10代~30代半ばという人生で一番フットワークが軽かった時期。すべての推しに愛を注ぎ、ライブに通うのは楽しくて仕方がなかった。
そんな私が2000年を境にパタッとライブ通いを停止し、それが20年続いたところから話ははじまります。
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LUNA SEA THE FINAL ACTが終わったとき。
【もうライブに行きたくなるほどのバンドは現れないだろう】
という予感と。
【そういえば、小説家になりたいという自分の夢はどうした?】
という現実が同時におぶさってきた。
西暦2000年。34歳世代でした(早生まれなので私は33歳)。
【いい加減、タイムリミットじゃないのか?】
背中が重い。夢からさめたら目の前は現実の荒野。
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そこから40歳になるまでは何か書いては投稿の日々。
自分もなにか残さなければ。自分の存在意義を示さなければ。などという偉そうな心があったかはよくわからなかったが、自分がしなくてはならないことに集中させて欲しい30代後半だった。
そんな折、バブルがはじけて契約社員で働いていた会社で人員削減が始まる。一緒にライブに行っていた同僚たち。みんな離散した。みんな行方知れずだ。
私もその会社を追われ、派遣社員になり新しい会社で働くことになった。四捨五入で40歳になっていた。
【猶予がない。早く自分をどうにかしなくては】
このあたりから、人生の焦りはさらに肥大する。40歳手前で、これで勝負だという作品を大手出版社の長編賞に応募する。【悪の秘密結社オテフセ団】というタイトルはいまでも気に入っている。自分が書いたもののなかではいちばん愉快なタイトルだったし、筆も乗っていた。
しかしながら、結果は最終選考一歩手前の2次選考通過止まり。
【終わったわ】
成功とは一握りの人間に与えられるもので、その他ほとんどの者はレールから外れたり落とされたりが当たり前の世界。奇麗ごとが嫌いだからこそ納得しなくてはならない事実である。
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同級生の年賀状はファミリー感満載。運が良ければ切手シートが当たる資源ごみを眺める正月。人生は折り返しに来ていた。
精神科に通うほどに結婚という選択肢はゼロである自分には、【老後のために仕事で頑張って金稼ぐしかない】。という考えしか浮かばなかった。
40~50歳は会社という仕事に振り回されるだけの10年。
仕事内容は興味深く、いい同僚たちにも恵まれたが、労働条件が過酷で、終電帰りあたりまえ、深夜のタクシー帰り、土日の出勤もあったり、それでも翌日はにこやかにに出勤しなくてはならない。
それでも他にすることもない。ひたすら働いてお金を稼いでいくことを生きがいとしよう。
終わりが見えない残業50時間超の日々。45歳あたりから心身ともに動かなくなっていく。やっと世の理不尽を感じたときにはもう遅く、上司からのパワハラを受け、あげくクビになって放り出された。
そんなことがあったので、2020年になってはじめてエレカシの【奴隷天国】という楽曲を聞いたときは愕然とした。この10年間のことを斜め上から皮肉られていたからだ。
人生後半、会社の奴隷になって喜んでいた馬鹿な自分に向けられる歌を当時20代のエレカシに【お尻ペンペン】されている。
エレカシがこんな凄い楽曲作っていたとは。それを知ったのが2020年になってだった。それもまた皮肉。
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50歳になって会社から二度と来るなと追放されたが、幸い次の仕事はすぐ決まった。2018年のことだ。
新しい会社は9時~17時で残業はなく、収入は減ることになったが、疲労しきった体と精神は徐々に落ち着きを取り戻しはじめた。夜の時間にテレビを見るということまでできるようになった。すっかり忘れていた音楽にも触れる機会もできた。いま、こんな人たちが流行っているのか。いいねと思ってもピンとは来ない。
10年間、社畜をしていたので仕事以外の世界でなにがあったのかわからなくなっていた。
自分が推してきていたアーティストたちがすでに【懐メロ】と言われていることに呆然としながら、新宿のビル街見上げて【これからどうしたものかな】と途方に暮れる。
それでも、夜ご飯を自炊できる時間に帰ることができて、世の中で起きていることを確認するためにニュース番組まで見られる日常は50歳過ぎにはやさしいものだ。
このまま日本茶飲みながらのんびりと時は過ぎていくのだろうな。そう思っていたときだ。
【借りものの命がひとつ 厚かましく使い込んで返せ】
その楽曲は1日の終わりにやってきた。
なにそれ、すごくいい歌詞。
重い腰がゆっくりとあがる。
ニュース番組のエンディングに流れた【獣行く細道】の一節が、宮本浩次沼への第一歩だった。
一話完結できないので~続く~