第3話 オフコース~武道館10DAYS 人生初ライブ~
文字数 2,519文字
みなさんこんにちは。エレカシさんと同学年に生きている甘らかんと申します。
このエッセイは音楽を中心に、50も半ばで「今ごろエレカシ沼かよ!」にたどり着くまでの推し遍歴をとっ散らかりながらお送りするエッセイになります。
今回は【オフコース】です。
小 田和正さんが在籍していたあの【OFF COURSE】です。
「もちろん」ではなく、「コースアウト的な意味」だと当時小田和正さんは「お願いだから誤解しないで」とよく語っていました。
ウィキペディア先生によるとデビューは1970年。1989年まで活動していたそうです。
気がついたら「さよなら」(1979年)が爆発的にヒットしていました。
宮本浩次少年が中学生になって石森君、冨永君とわちゃわちゃしていたあたりです。
当時中学生の私も同級生とオフコースの話で大変盛り上がったものです。「愛を止めないで」とか「YES NO」とか。大人の愛、曲中の濡れ場もさらっと片づける技がため息ものですよ。私は「YES,YES,YES」が好きでした。「振り返らないで、今君は素敵だよ。僕のゆくところへあなたを連れて行くよ」なんてあのハイトーンで歌われるんですよ。中学生の胸にもズッギュンドンでしたよ。
ここにオフコース聞いて育つませたガキの出来上がりです。
ちなみにですが、当時私は【チューリップ】も好きでした。
財津和夫さんが在籍しているあの【TULIP】です。
チューリップは「ブルースカイ」とか「アルバトロス」が好きでした。「2002年ピクニック」あたりから離れてしまったのですが、財津さんは松田聖子さんへの楽曲をたくさん提供するようになり(財津さんてばこんな曲もイケたんだ)と感動したりもしました。
今回は(ライブ行ったことがないので)財津さんは置いておいて。
*
【オフコース武道館10DAYS】
1982年6月15日~30日にかけて行われた。5人のメンバーによる伝説と言われているライブです。
ライブ当時、エレカシのメンバーは高校1年生になっています。彼らはオフコース伝説のライブに対してどう思っていたのだろう。
「知りませんでした」とはまさか言わないだろう。あれだけの騒ぎになったんですから。
【日本武道館】という場所は宮次さんがオギャッと生まれた1966年に、初来日したビートルズがライブ会場にしたことから、ミュージシャンの聖地と言われており、【武道館でライブをやる】ということは一流になった証でもあったわけです。
スポーツに興味のない者が、東京ドームに対してライブ以外なにをするところかわからないように(野球ってなに? 童夢くんって誰?)、日本武道館もまたライブ以外になにするとこ?(武道ってなに? 斬鉄剣でなにか斬るの?)というほどのミュージシャンの聖地。
その武道館で10日間やる。ということが1980年代どれだけ大それたことだったか。
まず発表の仕方が話題になりました。私の記憶が間違っていなければ新聞の一面使ってドーンです。
インターネットなどという便利な代物は存在していなかったので、武道館10DAYSやるからチケット欲しかったら、抽選するから往復はがきで希望日を記入して申し込んでくださいね(おひとり様はがき1枚までなどということは記されていなかった、たぶん)。という感じの文章が書いてあるわけですよ。新聞一面広告で。
さらにどこかの1日だけ特別デーがあって、財津さんやらユーミンさんやら名だたるミュージシャンなどの招待席がアリーナに設けられて、一緒にオフコースライブを堪能できるという日があって、この日行けた人は「明日地球が則巻アラレに割られてもいい!(当時の感覚)」ぐらい高揚したんじゃないだろうか。
抽選時は中学3年生だったわけですが、もう受験どころではありません。いや、もう受験終わっていたかな。まぁとにかく日本じゅうが騒ぎになりました。街中の郵便局から往復はがきが消えてしまうんじゃないかというくらいの勢いです。資料によると応募50万通以上だったらしいです。
インターネットがない時代の往復はがき抽選。
50万以上の往復はがきの束、どうやって抽選したのでしょうか。当時の関係者がいたら聞いてみたいものです。
チケットを買う権利が得られましたという返信はがきが来たという話を周囲で全く聞かず、10枚くらいはがきを出したにも関わらず、自分の字で宛名を書いた【残念でした】返信が同じ枚数戻ってくる悲しさ。
あの時、少女らかんは【心が折れる】という言葉を知りました。
が、しかし。高校1年にして。初めてライブに出向いたアーティストがオフコース、しかも武道館、になりました。某長編アニメ的なことが起きて「親方! 空からオフコースのチケットが落ちてきたよ!」というわけです(決して不正行為ではない)。
はじめての武道館の座席は1階席の真正面ブロック、前から数列目のやや下手よりだった。日にちは忘れてしまったのですが、初日でも最終日でもゲストが見に来る日でもなかったことは確かです。そんなことは忘れられません。
ライブはもう、興奮がすぎて頭真っ白。ひまわりの映像が揺れていたことと、小田和正さんの美しい歌声と鈴木康博さんのパンチのある歌声。
ただ呆然として友達と手を取り合って「ヒィ~ヒィ~(言葉にできない)」だった記憶しか残っていません(笑)
このあと残念なことに鈴木さんが抜けてしまい、解散へと進んでしまうオフコース。
解散後、ソロになった小田和正さんの活躍は令和の現在も続いていますが、私には心に刺さらずでオフコース推しは早くも終わりを告げました。鈴木さんがいないと小田さんがもの足りない。そんな気がしてならなかったのです。
*
あの伝説のライブが行われたときエレカシのみなさんも高校1年生だった。
あのライブ見たメンバーいるのだろうか。
武道館のライブはこのあともいろんなアーティストで何度か行くことにはなるのですが、【はじめての】というのは印象深いものです。
「あなたに会えて ほんとうによかった。うれしくてうれしくて、言葉にできない」(言葉にできない:オフコース)
~第3話 終わる~
このエッセイは音楽を中心に、50も半ばで「今ごろエレカシ沼かよ!」にたどり着くまでの推し遍歴をとっ散らかりながらお送りするエッセイになります。
今回は【オフコース】です。
小 田和正さんが在籍していたあの【OFF COURSE】です。
「もちろん」ではなく、「コースアウト的な意味」だと当時小田和正さんは「お願いだから誤解しないで」とよく語っていました。
ウィキペディア先生によるとデビューは1970年。1989年まで活動していたそうです。
気がついたら「さよなら」(1979年)が爆発的にヒットしていました。
宮本浩次少年が中学生になって石森君、冨永君とわちゃわちゃしていたあたりです。
当時中学生の私も同級生とオフコースの話で大変盛り上がったものです。「愛を止めないで」とか「YES NO」とか。大人の愛、曲中の濡れ場もさらっと片づける技がため息ものですよ。私は「YES,YES,YES」が好きでした。「振り返らないで、今君は素敵だよ。僕のゆくところへあなたを連れて行くよ」なんてあのハイトーンで歌われるんですよ。中学生の胸にもズッギュンドンでしたよ。
ここにオフコース聞いて育つませたガキの出来上がりです。
ちなみにですが、当時私は【チューリップ】も好きでした。
財津和夫さんが在籍しているあの【TULIP】です。
チューリップは「ブルースカイ」とか「アルバトロス」が好きでした。「2002年ピクニック」あたりから離れてしまったのですが、財津さんは松田聖子さんへの楽曲をたくさん提供するようになり(財津さんてばこんな曲もイケたんだ)と感動したりもしました。
今回は(ライブ行ったことがないので)財津さんは置いておいて。
*
【オフコース武道館10DAYS】
1982年6月15日~30日にかけて行われた。5人のメンバーによる伝説と言われているライブです。
ライブ当時、エレカシのメンバーは高校1年生になっています。彼らはオフコース伝説のライブに対してどう思っていたのだろう。
「知りませんでした」とはまさか言わないだろう。あれだけの騒ぎになったんですから。
【日本武道館】という場所は宮次さんがオギャッと生まれた1966年に、初来日したビートルズがライブ会場にしたことから、ミュージシャンの聖地と言われており、【武道館でライブをやる】ということは一流になった証でもあったわけです。
スポーツに興味のない者が、東京ドームに対してライブ以外なにをするところかわからないように(野球ってなに? 童夢くんって誰?)、日本武道館もまたライブ以外になにするとこ?(武道ってなに? 斬鉄剣でなにか斬るの?)というほどのミュージシャンの聖地。
その武道館で10日間やる。ということが1980年代どれだけ大それたことだったか。
まず発表の仕方が話題になりました。私の記憶が間違っていなければ新聞の一面使ってドーンです。
インターネットなどという便利な代物は存在していなかったので、武道館10DAYSやるからチケット欲しかったら、抽選するから往復はがきで希望日を記入して申し込んでくださいね(おひとり様はがき1枚までなどということは記されていなかった、たぶん)。という感じの文章が書いてあるわけですよ。新聞一面広告で。
さらにどこかの1日だけ特別デーがあって、財津さんやらユーミンさんやら名だたるミュージシャンなどの招待席がアリーナに設けられて、一緒にオフコースライブを堪能できるという日があって、この日行けた人は「明日地球が則巻アラレに割られてもいい!(当時の感覚)」ぐらい高揚したんじゃないだろうか。
抽選時は中学3年生だったわけですが、もう受験どころではありません。いや、もう受験終わっていたかな。まぁとにかく日本じゅうが騒ぎになりました。街中の郵便局から往復はがきが消えてしまうんじゃないかというくらいの勢いです。資料によると応募50万通以上だったらしいです。
インターネットがない時代の往復はがき抽選。
50万以上の往復はがきの束、どうやって抽選したのでしょうか。当時の関係者がいたら聞いてみたいものです。
チケットを買う権利が得られましたという返信はがきが来たという話を周囲で全く聞かず、10枚くらいはがきを出したにも関わらず、自分の字で宛名を書いた【残念でした】返信が同じ枚数戻ってくる悲しさ。
あの時、少女らかんは【心が折れる】という言葉を知りました。
が、しかし。高校1年にして。初めてライブに出向いたアーティストがオフコース、しかも武道館、になりました。某長編アニメ的なことが起きて「親方! 空からオフコースのチケットが落ちてきたよ!」というわけです(決して不正行為ではない)。
はじめての武道館の座席は1階席の真正面ブロック、前から数列目のやや下手よりだった。日にちは忘れてしまったのですが、初日でも最終日でもゲストが見に来る日でもなかったことは確かです。そんなことは忘れられません。
ライブはもう、興奮がすぎて頭真っ白。ひまわりの映像が揺れていたことと、小田和正さんの美しい歌声と鈴木康博さんのパンチのある歌声。
ただ呆然として友達と手を取り合って「ヒィ~ヒィ~(言葉にできない)」だった記憶しか残っていません(笑)
このあと残念なことに鈴木さんが抜けてしまい、解散へと進んでしまうオフコース。
解散後、ソロになった小田和正さんの活躍は令和の現在も続いていますが、私には心に刺さらずでオフコース推しは早くも終わりを告げました。鈴木さんがいないと小田さんがもの足りない。そんな気がしてならなかったのです。
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あの伝説のライブが行われたときエレカシのみなさんも高校1年生だった。
あのライブ見たメンバーいるのだろうか。
武道館のライブはこのあともいろんなアーティストで何度か行くことにはなるのですが、【はじめての】というのは印象深いものです。
「あなたに会えて ほんとうによかった。うれしくてうれしくて、言葉にできない」(言葉にできない:オフコース)
~第3話 終わる~