ハルシオンと呼ばれた鳥

文字数 3,067文字

 その夜、フィリスが新しい本を開くと、最初のほうのページに、ハルシオンと呼ばれた鳥について書いてありました。
「もしかしたら、お兄ちゃんが話してくれた話かも」フィリスは言いました。そしてフィリスはソファの上で身体を丸めて、そのお話を読み始めました。
 とても遠い昔のこと、ギリシャという素晴らしい国に、賢く公正で穏やかな王様が住んでいました。この国の民は、王を敬愛していました。
 王様の住む大理石の宮殿は、低い丘の上に建っていました。王様といっしょに暮らすのは、ハルシオンという名の美しい王妃様です。
 王様は賢く公正で善良でしたが、同時に苦しんでもいました。国が不安定だったのです。ギリシャはいくつもの問題を抱えていました。
 ついにある日、王様はハルシオン王妃のところへやって来ました。王妃様は侍女たちといっしょに、丁寧かつ楽しげに、糸を紡いでいました。
「ハルシオン――我が妃よ」王様は言いました。「お前も知ってのとおり、私はひどい悩みを抱えていて、不安でならない。どうすれば一番良いのか自分ではわからないのだ。神々の賢明なる助言を求めに行かねばならない」
 ハルシオン王妃は紡ぎ棒を落とし、怯えた様子で王様を見ました。
「行かねばならない」王様はハルシオン王妃に言いました。「海を渡る長い旅になる。知ってのとおり、アポロン神の神殿には賢い神官がいる。この神官に、私は助言を求めねばならない」
 すると、美しいハルシオン王妃の心は悲しみでいっぱいになりました。愛する善良で優しい王様に、危ないことがあるのではと怖くなったのです。
 ハルシオン王妃は王様の前にひざまずきました。海を渡る恐ろしい旅を後回しにしてくれと懇願したのです。
「本当に」王妃は叫びました。「恐ろしい危険だらけなのです、我が王よ! この旅は長く辛いものです。私と共に宮殿にいてください!」
 王様は哀れむような笑顔を美しい王妃に向けました。優しく頬に口付けてから、王妃に答えます。
「思うに」王様は悲しげに言いました。「他に術はないのだ。私は行かねばならぬ」
「ああ、それなら、私もお連れください。危険も辛さもわかちあわせてください」
「ならぬ――」王様は言いかけました。
「実際、ここであなたのいない寂しさと恐怖に耐えるよりも、はるかにたやすいでしょう。ここでお帰りを待っていたら、私は弱り果ててしまいます!」
 王様はハルシオン王妃を愛していました。だから王妃と共に宮殿に残っていたかったのです。ですが出立に向けて船の準備はもうできており――ハルシオン王妃が乗る余地はありませんでした。
 漕ぎ手たちはもうオールのところに座っていて、漕ぎ出す準備はできていました。なので王様はハルシオン王妃に別れを告げ、船に乗り込むと慌しく出立していきました。
 苦い涙を流しながら、ハルシオン王妃は岸辺に立ち、離れていく船を見守りました。
 船が小さなしみのようにしか見えなくなっても、ハルシオン王妃は手で目を覆ってまだ見続けていました。ですがその小さなしみが紫色の水平線に霞んで見えなくなると、ハルシオン王妃はため息をつきながら、大理石の宮殿に侍女たちを連れて戻りました。
 小さな船は、海原をどんどんと渡って行きました。旅は順調に進行していたのです。夜には星が輝きました。朝には太陽が青い海から雲のない空へと昇って行きました。優しい風が吹いてきて、帆を膨らませて小さな船を静かに進めて行ってくれています。
 ですがある日、海に変化が訪れました。軋むような風の音が聞こえます。黒い雲が空を覆ってしまいました。
 波は高くなり、白い泡を散らして砕けました。雨が降り始めます。風は次第に強くなり、小さな船に激しくぶつかってきました。
 しばらくの間、船は波に揺られて上がったり下がったりしていました。激しく揺れたり回ったりしています。巨大な波が襲いかかってきて、漕ぎ手たちをさらって行ってしまいまし。
 帆柱が折れました。そしてとうとう小さな船は、波の間に埋もれ、水の下へと沈んで行ってしまいました。
 王様と乗組員たちも、深く青い海の底へと沈んでしまいました。
 数週間が過ぎました。数ヶ月が過ぎました。そして一年が経ちました。
 ハルシオン王妃は、海岸を落ちつきなくさまよい歩きました。弱り果てた目で、紫に霞むはるか彼方を眺めます。ですが王様は戻って来ませんでした。
 王妃は神々に祈りを捧げ、深く愛している王様を守ってくれるようにと願いました。聖なる祭壇へとおもむき、香を炊いて捧げます。
 その祈りを女神ユノが耳にし、美しいハルシオン王妃が涙にくれるのを見て、王妃を気の毒に思いました。そしてユノは、自分の部下である虹と伝令の美しい女神イリスを呼びました。
「イリス」ユノは言いました。「今夜、お前の虹の橋を夢の神のもとへと架けなさい
 そしてハルシオンに夢を見せ、夫である王がどうなったかを教えよと伝えなさい。愛する人がどうなったかを知るほうが、何も知らないままさまよい歩くよりも良いでしょう」
 そして、美しき伝令神イリスは、夢の神のもとへと飛んで行きました――そしてその夜、ハルシオン王妃は王様がやってきてどうなったかを話してくれる夢を見ました。王様は、船はもうずっと前に、乗組員ともども海に沈んでしまったのだと話しました。
「勇敢におなり、私のハルシオン」亡くなった王の影は言いました。「勇敢になって耐えなさい、そして神々のご意志があればもしかして、いずれ影の国で私たちはまた出会えるだろう」
 夢から目覚めたとき、ハルシオン王妃は寝椅子から飛び起きて海岸までまた走って行きました。王妃は腕を伸ばし、大きな声で、父である風の神アイオロスを呼んだのです。
「偉大なる父、アイオロスよ」王妃は祈りました。「私に大きく強い翼をお授けになり、王が今眠る場所まで飛んで行けるようにしてください。
 どうかお聞き届けを、アイオロス! あなたの娘、ハルシオンの願いを!」
 そうして祈っていると、ハルシオン王妃はゆっくりと空中へと浮かびました。襞のある青い衣が、王妃を包み込みます。
 ハルシオン王妃は海の上を漂って行きました。王妃の胸は何度も何度も波の白いしぶきが降りかかり、ドレスの喉もとから胸にかけて白い泡が残りました。
 王妃は大きな波の上をどんどんと飛んで行きました。その翼はしっかりとして、力強く、疲れ知らずだったのです。
 そしてとうとう、水の下に眠る王様が見えるところまでたどり着きました。しわがれた声が喉からほとばしり、王妃は王様を呼びました。
 王妃は強い翼を羽ばたかせ、王様の上にずっと浮かんでいました。哀しみの叫びが何度も何度も、その喉からは放たれました。
 そしてユノは、雲の上から下の世界を見下ろして、ハルシオン王妃が死んだ王様のもとで、波の上にひざまづいているのに気づきました。女神は天上の自身の座所から身を乗り出すと、王様の額に触れました。
 すると、どうでしょう! 水の中から強い両の翼を持った、青と白の鳥が現れたのです。
「ああ」アイオロスはため息をつきました。「この鳥たちをハルシオンの鳥と呼ぼう、愛しいハルシオン、愛を諦めなかったあの子にちなんで。
 この鳥たちはずっと水辺に住み、穏やかで静かに子供たちを育てさせよう。
 見よ、ハルシオンが我が子の身を案じるとき、私は我が風を止ませよう。水面は穏やかになり、太陽は楽しげの輝くだろう。
 そしてこの穏やかで静かで幸せな時期を『ハルシオン日和』と呼ぶのだ、この先もずっと」
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