二章-6
文字数 1,343文字
ヤナギが教えてくれた幸せが、音もなく、ルナの指の隙間から零れ落ちていく。肉体的に繋がらなくても誰かを好きになれるし、隣で笑い合えるだけで生きていけると思わせてくれた日々が、粉々に砕けていく。
酷い目眩がして視界が歪んだ。ぐにゃぐにゃとマーブルを描く光景に吐き気が強まり、目の前が暗くなる。
遠くで名前を呼ばれた気がした。そんな人は、もう、この世界の何処にもいないのに。
「ここにいたら、駄目?」
在りし日のヤナギに、ルナは恐る恐る問いかける。分厚い眼鏡をかけた男は、彼に懐く男娼に、困った顔で頭を掻きながら笑う。
「その顔は卑怯だなぁ」
長年の経験で、甘える時は我知らず、上目遣いになってしまうらしい。ヤナギが教えてくれた、ルナの悪癖。
「狭い部屋だし、しょっちゅう電気もガスも止まるし、布団は一組しかないけど」
頭を搔くだけでなく、困ったように笑うのもまた、ヤナギの癖だった。懐かしくて温かい、ルナが失いたくなかった表情の一つ。その顔を隣で見ていられるだけで、ルナは明日を待てる気がした。明日も明後日も、ずっと先の未来も、無条件に信じられた。
男臭いヤナギの体臭も、少し間抜けな寝顔も、全部、大好きだった。
「俺だってバカじゃねェんだから、泳がせてたんだよ」
不機嫌な声が鼓膜を打って、ルナは夢から目覚める。
「お前はやけに、あのガキに肩入れするからな、普通は気づくだろ」
額が冷たい、と思って手をやると、濡れたタオルが載せられていた。シュントがそうしたのだとわかった。
まだ僅かに眩む視界に吐き気がする。嘔吐きそうになるのを堪えながら、ルナは、寝かされていたソファから体を起こす。ソファの背もたれの向こうにあるダイニングで、双子が何やら話し込んでいるのが見て取れる。
「同類の誼かよ、淫売」
実の兄に向けるにしては、あまりの暴言に、ルナは思わず目を見張った。咄嗟に見やったシュントは背を向けていて、どんな顔をしているのかわからない。
「……お前はもう、いい加減にしろ」
心底うんざりしたように嘆息して、シュントが答えた。声からも感情が読めないほど、落ち着いている。
「何がだよ」
フユトの声が凄む。
「そうやって周りを振り回すのを、だ」
シュントはそれでも動揺せず、淡々と続ける。
「いつまでも子供じゃない、あの頃より無力じゃない、それ以上、お前は何を望む?」
フユトは無言だった。ダイニングの先のキッチンは暗がりで、そこに立つフユトの表情は見えない。
「そうやって喚き散らして、あれが死んだら元は取れない」
シュントの声は冷徹だった。ルナと話すときの柔らかさは微塵もないから、たぶん、こちらが彼の素なのだ。
フユトが鼻で笑った。
「そもそも、お前にそんな気なんかねェだろが」
苛立ちと憎悪を孕む、暗い声で、
「損失なんか端からねーのに」
はっきりと言うから、ルナは思わず、息を止めた。
「
フユトの声にノイズが混じる。耳鳴りが始まって、ルナの目眩も更に酷くなる。先程のように気絶してしまえたら楽なのに、意識はルナから離れようとしない。
「言えよ」
抱えた膝に額を載せて、深呼吸する。喉の奥がひどく渇き、心臓から凍てついてしまいそうで、気持ちが悪い。
酷い目眩がして視界が歪んだ。ぐにゃぐにゃとマーブルを描く光景に吐き気が強まり、目の前が暗くなる。
遠くで名前を呼ばれた気がした。そんな人は、もう、この世界の何処にもいないのに。
「ここにいたら、駄目?」
在りし日のヤナギに、ルナは恐る恐る問いかける。分厚い眼鏡をかけた男は、彼に懐く男娼に、困った顔で頭を掻きながら笑う。
「その顔は卑怯だなぁ」
長年の経験で、甘える時は我知らず、上目遣いになってしまうらしい。ヤナギが教えてくれた、ルナの悪癖。
「狭い部屋だし、しょっちゅう電気もガスも止まるし、布団は一組しかないけど」
頭を搔くだけでなく、困ったように笑うのもまた、ヤナギの癖だった。懐かしくて温かい、ルナが失いたくなかった表情の一つ。その顔を隣で見ていられるだけで、ルナは明日を待てる気がした。明日も明後日も、ずっと先の未来も、無条件に信じられた。
男臭いヤナギの体臭も、少し間抜けな寝顔も、全部、大好きだった。
「俺だってバカじゃねェんだから、泳がせてたんだよ」
不機嫌な声が鼓膜を打って、ルナは夢から目覚める。
「お前はやけに、あのガキに肩入れするからな、普通は気づくだろ」
額が冷たい、と思って手をやると、濡れたタオルが載せられていた。シュントがそうしたのだとわかった。
まだ僅かに眩む視界に吐き気がする。嘔吐きそうになるのを堪えながら、ルナは、寝かされていたソファから体を起こす。ソファの背もたれの向こうにあるダイニングで、双子が何やら話し込んでいるのが見て取れる。
「同類の誼かよ、淫売」
実の兄に向けるにしては、あまりの暴言に、ルナは思わず目を見張った。咄嗟に見やったシュントは背を向けていて、どんな顔をしているのかわからない。
「……お前はもう、いい加減にしろ」
心底うんざりしたように嘆息して、シュントが答えた。声からも感情が読めないほど、落ち着いている。
「何がだよ」
フユトの声が凄む。
「そうやって周りを振り回すのを、だ」
シュントはそれでも動揺せず、淡々と続ける。
「いつまでも子供じゃない、あの頃より無力じゃない、それ以上、お前は何を望む?」
フユトは無言だった。ダイニングの先のキッチンは暗がりで、そこに立つフユトの表情は見えない。
「そうやって喚き散らして、あれが死んだら元は取れない」
シュントの声は冷徹だった。ルナと話すときの柔らかさは微塵もないから、たぶん、こちらが彼の素なのだ。
フユトが鼻で笑った。
「そもそも、お前にそんな気なんかねェだろが」
苛立ちと憎悪を孕む、暗い声で、
「損失なんか端からねーのに」
はっきりと言うから、ルナは思わず、息を止めた。
「
蛇
の入れ知恵なんだろ、最初から。本人に聞いてネタは割れてる」フユトの声にノイズが混じる。耳鳴りが始まって、ルナの目眩も更に酷くなる。先程のように気絶してしまえたら楽なのに、意識はルナから離れようとしない。
「言えよ」
抱えた膝に額を載せて、深呼吸する。喉の奥がひどく渇き、心臓から凍てついてしまいそうで、気持ちが悪い。
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