プロローグ-1

文字数 1,400文字

 冷えた夜気が漂っている。戦禍の名残を留め、復興の道筋も見えない廃墟群の片隅で、少年は壁に背をつけ、両膝を抱え、蹲っていた。冷え込む日に限って夕方まで買い手がつかず、日が落ち、夜を迎えてしまった。この時期、体を売って日銭を稼ぐ娼婦や男娼は、夜まで買い手がつかなければ、無事に明日を迎えられるかわからない。もちろん、買い手がついたとて、その身の安全が保障されるわけではないが、路傍で凍えてしまうよりは幾らかマシだった。

 同じような少女や少年が数人、彼の近くで壁に寄りかかり、或いは立ち尽くし、ただでさえ少ない通行人を眺めている。

 この辺りは立ちんぼが多いので、その筋の事情に詳しい人々が、品定めに訪れる。好みの娼婦か男娼を見つければ、声をかけ、交渉し、その手を引くか決めるのだ。立ちんぼからは余程の事情がない限り声は掛けない、暗黙のルール。

 運良く、金を持った太客を捕まえて愛人になれれば、束の間でも、彼らの未来は明るい。だが、変な客を捕まえて殺されてしまう確率と、経験を重ねた末に悪い病気をもらって野垂れ死ぬ確率のほうが、飢えて死ぬ確率の次に圧倒的に高い。

 物心ついた頃からそうやって生きてきたものの、どうしてだか、今日だけは乗り気になれないのだ。こんな先の見えない毎日なんて、今日、終わってしまっても構わない。投げやりな気持ちで蹲る彼の視界の端に、立ち止まる靴先が見えて、気怠く顔を上げる。

「君、今日は、お客さん取ってないの?」

 分厚い眼鏡をかけ、ひょろりとして線が細く、冴えない男が、少年の前に立って、心配そうに様子を窺っていた。

「──……買われなくてもいいかと思って」

 少年は素直に答えた。

 男は、この界隈で、何度か見かけたことのある顔だった。拠れた服を着ていることや汚れた靴から、中間層よりは貧困層に近い客なのだろうと思う。少年はこれまで、中性的で綺麗な容貌から、比較的、成金か資産家の男に好かれることが多かったから、声を掛けてきた男になど興味はないし、買われる気もない。むしろ、周囲で待ち続けている他の誰かに食指を向けてくれと思いながら、

「僕、高いですよ」

 やる気なく立ち上がって告げると、男は肩にかけた襤褸の鞄を漁って、胡乱げな少年の目の前に名刺を差し出す。

 フリージャーナリスト、xxx。

 擦り切れた名刺に書かれた情報は、けれど、読み書きできない少年には意味がない。

 倦み疲れた表情を更に曇らせた少年に、

「この辺りで暮らす子どもに声をかけて、話を聞いてるんだ、もちろんタダとは言わない」

 冴えない男がどもりながら言って、少年は何気なく、名刺を受け取った。

「君のことは前から見かけてて、気になってたんだ、高いのは知ってる、けど一度、話だけでも」

 読めないながらも、名刺を矯めつ眇めつしている少年に、男が言い募る。そのとき、

「なんだ、ルナ、珍しく手隙か」

 横から快活な声が飛んで、少年はそちらを振り向いた。小柄ながら恰幅のいい馴染み客が、先に声を掛けていた男など眼中になく、こちらにやって来るところだった。

「そうなんですよぅ」

 少年は男から受け取った名刺を素早く、擦り切れたデニムのポケットにしまって、中性的な顔立ちに妖艶な色を漂わせ、男を横目に見ながら馴染み客の腕を取ると、慣れた様子で絡みつく。

 場数をこなした玄人と客が連れ立って、夜の向こうに消えていくのを、男は途方に暮れて見送った。
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