一章-3

文字数 1,679文字

 みんな、心配してくれるのに。相談役の青年や、目の前の少年の思いには、ルナは応えられそうにない。正しい道に戻ることなど、永遠に出来ない気がしている。行動の結果、ハウンドが動くのは必然だ。ルナの顧客がどういう立場の人間か、考えれば自ずとわかる。

 怖いものなどなかったはずなのに、恐怖が先に立って、ルナは愕然とした。死ぬか殺されるかする未来を想像して、理解していたはずなのに、いざ、その噂を聞くと足が竦む。

「大丈夫だよね?」

 少年の念押しに、ルナは否定も肯定もできなかった。せめて、動いたのが、無慈悲で有名な双子でなかったら、ここまで戦慄はしなかったかも知れない。同じストリート出身の誼だからと図らってくれる他の誰かであれば、きっと、同じ結末でも怖くはなかった。

 別の日。噂を聞いてから住処に篭っていたルナは、久しぶりに街頭へ立った。別に声が掛けられるのを待っていたわけではない。客を取りたかったわけでもない。ただ何となく、宿命を待っているのは重くて、外の空気を吸いたくなったのだ。

「その子なら、ほら、あそこ」

 ふと耳に飛び込んできた声は、顔なじみの少女のものだった。少し離れた角で、若い男にルナを指差している。

 耳を隠すほどまで伸ばされた褐色の髪と、切れ長の三白眼。長身で、実用的な筋肉をしっかり鍛えたとわかる体つき。まだ少年期の幼さの残る面立ちはしかし、修羅場を経験しなくとも、常人と違うものを抱えていることはわかる。彼が噂のハウンドだ、と、目を合わせるまでもなく、ルナは直感した。

 いざその時は、怖じ気づいて動けないと思っていたが、咄嗟に踵を返して駆け出している。入り組んだ路地を無造作に走り抜け、屋内に地階の入口が残る廃墟へ飛び込み、身を隠す。息が乱れる。

 しばらく潜伏して様子を見たものの、若いハウンドはルナを追って来なかった。

 そもそも、最初からルナを標的にしているのなら、狙っていることを明かす必要があるだろうか。界隈の少年少女にわざと声をかけ、或いは金を払って買い、噂になるような行動をしている時点で、標的に逃げる機会を与えてしまっている。

 だからきっと、これは牽制だ。警告だ。ルナの病的な衝動を戒める、最後の機会だ。

 そう思ったのに、ルナにはやはり、自制ができない。

 真冬日だった。雪にはならなかったものの、朝からどんよりと曇って寒い。住処の廃墟で段ボールの切れ端や新聞紙、古びて襤褸のようになった毛布をいくら重ねても、ここ数日の空腹で、体温を失いつつあるルナは震えていた。いずれ殺されてしまうなら、このまま凍死してしまった方が痛い思いはせずに済む。なのに、しぶとい生存本能は、ルナを街頭に立たせる。

 中性的な容貌と、華奢で小柄な体が窶れれば、他人にはどう見えるだろう。ものの哀れを誘われるだろうか。みすぼらしいと眉を顰めるだろうか。死にかけのように見えるだろうか。

 取り留めもなく思いながらも、ルナにはちゃんとわかっている。その姿が同情を引き、或いは嗜虐心をそそり、自己顕示と支配欲ばかりが強い男を引き寄せると。ルナに

殺意の理由を与えてくれると。

 だから、出来るだけ壁に寄りかかり、立っていられないように蹲り、声が掛かるのを待った。それは半ば演技ではなかったものの、ちゃんとした客を取るためなら、ルナはしっかり立つこともできたのに、だ。

「──ルナ、と言ったね」

 名前を呼ばれて顔を上げる。遠巻きに警護を二人連れた、狸の風格漂う初老の男が、尊大にルナを見下ろしている。

 顔を上げて、よろよろと立ち上がると、

「三十万渡すから、どうかね、一晩」

 男は隠す気もなく告げた。

 この男はルナの顧客ではなかった。ただし、界隈では、最中に縄を使うのが好きだと有名だった。関節を極めて拘束し、肉体の限界を見極めながら、猛烈に攻められると聞いたことがある。そこには配慮の一欠片もないため、解放される間際には、生き延びた歓喜で泣き崩れ、あまつさえ男を崇拝してしまう、哀れな犠牲者が多いのだと。

 ルナは虚ろな顔で頷いた。誤って殺される不安は、微塵もなかった。
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