プロローグ-3

文字数 1,231文字

 微笑んで見せると、冴えない男は頬を赤くして、照れたように頭を掻いた。

「勢いだけじゃダメなんだけどね、記事を書いても国が変わらなきゃ」

 それから、ルナと、冴えないヤナギとの交流が始まった。

 幾多の顧客を持ち、客が引けない日のほうが少ないのに、ルナは敢えて誘いの手を断って、ヤナギの家に出入りするようになった。ヤナギは嫌な顔をしなかったし、余裕がないながらも気を使ってくれるので、ルナもそこに甘えることが心地よくなっていた。

 戦後すぐに建てられたような、築年数の古い集合住宅は賃料こそ安いものの、総じて壁が薄い。

 ある日の夜だった。シングル布団に寝ていると、発情期の猫のような、鼻にかかった嬌声が、壁の向こうから聞こえた。ルナが思わず身を固くすると、風呂上がりのヤナギが戻ってきて、

「あぁ、ごめん、新しく隣に入った人が女を連れ込むことが多くて……」

 申し訳なさそうに頭を搔く。困った時のヤナギの癖だ。

 ルナはヤナギを気に入って、勝手に押しかけている身分だし、ストリート暮らしのように隣人を選べないのは気の毒なので、

「びっくりしただけ」

 僅かに距離を開けて、同じ布団に寝そべるヤナギに、問題ないと告げる。

 明かりを消した部屋は真っ暗で、だから余計に声や軋みが響いて、ルナはなかなか寝付けない。慣れているヤナギは眠ってしまったようだった。横になってすぐ、軽く鼾をかき始めた。

 ひょろっとしていて、冴えない印象のヤナギだが、分厚い眼鏡を外すと、目鼻立ちがそこそこ整っていることに気づく。二十代にしては疲労感が色濃いものの、その草臥れ具合が彼の誠実な性格を表している気がして、ルナは好きだ。

 眠るヤナギを向いて、形の良い鼻梁を眺めていると、彼が不意に寝返りを打ち、ルナに背中を向けた。やまない嬌声に、客の誘いを断る日々で溜まった欲情を刺激されたルナは、そっと、抱きつこうとして、ヤナギの細い腰に腕を伸ばしたものの。

「……あ、ごめん、暑がりだから」

 ヤナギは完全に熟睡していなかったようで、手を払う。

 きゅっ、と胸の奥が切なくなった。ヤナギの言葉が嘘であれ本当であれ、ルナが拒絶されたようで、寂しい。

「……ごめん」

 ルナも詫びて、ヤナギに背を向けるよう、寝返りを打った。

 淫靡な声は夜明け前に聞こえなくなったが、ルナはずっと、眠れなかった。同じ姿勢のまま、寝返りすら打てなかった。

 気づいてはいたのだ。子どもの搾取を社会問題として問いかけたい彼に、搾取する側の大人と同じ思考回路はなく、ましてや、中性的とはいえ、小柄で華奢だとはいえ、ルナの性別はヤナギと同じだから、絶対に一線は超えないだろうという確信があった。だって、

確率は低い。

 半年ばかり、付かず離れずで過ごして、ルナは図々しくも、ヤナギと同居することにした。手を繋いだり抱きついたりしようとすると、微妙に距離を取られるのだが、それ以外でヤナギはルナに優しかったし、年の離れた友人としては十二分に付き合っていける。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み