第35話 たどり着いたらいつも雨降り

文字数 1,623文字

『短い話・いろいろな雨』を投稿した時に、某サイトでコメントをいただきました。

 雨で想い出す歌は、

『たどり着いたらいつも雨降り』

 最初に聴いたのは 氷室京介のバージョンで、暫くは氷室京介の作った歌だと想っていた。

 それから随分の時間がたって、モップスが歌ってるのをyoutubeで聴いた。

 作曲は吉田拓郎で、鈴木ヒロミツがボーカルでびっくり。この人役者だと想ってたんで……

氷室京介


 高校二年生の時に音楽を始める。上京後、バンド活動をしながらヒモのような生活をしていたが、このままではマズイと感じ、「夢を叶えるための仮の姿」だと自分に言い聞かせ、英語教材を販売する会社に就職。

 40万円のセットがよく売れ、全国売り上げ8位となり月給150万円となる。しかし上司に過度に将来性を期待されることが重荷で、このままでは夢を諦めないといけなくなると考え「音楽で夢をつかみたいんです」と事情を話し、円満退社する。 


 1982年、氷室狂介の名前で、ロックバンド・BOØWYのヴォーカリストとしてデビュー。  

 1988年4月5日、およそ7年の活動期間を以てBOØWYは解散する。

 1988年、シングル『ANGEL』でソロデビュー。同年オリコン年間順位8位となった。

 1994年以降、国外での音楽制作が増え、1997年に家族と共にロサンゼルスに移住した。

モップスは、かつて存在したグループ・サウンズ、ロックバンドである。日本のサイケデリック・ロックにおける草分け的存在として知られる。

 私はこの歌はモップスだと思っていました。モップスといえば『月光仮面』
 ジャズ喫茶でブルース・ロックをやる際、まだブルースをよく知らない無反応な客にアピールする為に『月光仮面』の主題歌を取り入れたのが始まり。

 その後、演奏を重ねるうち様々なコミカル要素が付け加えられ評判となりシングル・リリース~ヒット作となってしまった作品。

 一部ではコミック・バンドと勘違いされてしまう結果となってしまった作品。

 このハチャメチャな内容が、脚本と作詞をしている気難しそうな作家川内康範氏の許諾が下りるのかが全員の不安の種だった。(原曲「月光仮面は誰でしょう」川内康範・作詞 /小川寛興・作曲)

 プロデューサーとスタッフが挨拶に伺うと全く「案ずるより産むがやすし」の言葉通り、面白がってくれ快諾を得た。

 川内は月光仮面のテーマとして

「憎むな、殺すな、赦しましょう」

としていたが、おふくろさん騒動後、小説版の再版が行われた際は「憎むな、殺すな、真贋(まこと)(ただ)すべし」

と改めている。


おふくろさん騒動

 作詞家・川内康範が作詞し、森進一が歌唱した楽曲『おふくろさん』に、森が川内に無断で前奏パートを付けて歌唱したとして、2007年に発生した騒動。


『たどり着いたらいつも雨降り』は、元々は吉田拓郎がアマチュア時代に所属していたGSバンド「ダウンタウンズ」の曲で『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場した際に演奏していた楽曲。

 当初のタイトルは『好きになったよ 女の子』だった。 

 

 1970年前後はロックよりもフォークの方が、言葉を音楽に乗せるという点で先行していたため、

「フォークシンガーから楽曲提供を受けて、言葉を大事にする部分を残してロックを作ってみたらどうだろう」

というホリプロのプロデューサーだった奥田義行の発案を受けて、アルバム『モップスと16人の仲間』(1972年7月5日発売)が制作された。

 拓郎は初めてラジオパーソナリティを務めた『パックインミュージック』の生放送中に即興で、『好きになったよ女の子』の歌詞を書き直し『たどりついたらいつも雨ふり』を完成させた。

 これが飛び抜けて出来が良かったため、アルバム発売と同時にシングルカットされた。 

 メンバーの星勝は

「モップスが模索してきた日本のオリジナル・ロックがこの作品で、ある程度到達できた」

と話している。

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