第23話 ちんぺいさん
文字数 3,730文字
谷村新司のラジオ番組はかなりエロトークだった……
YouTubeに音声だけアップしてありますが、かなりすごいです。
さだまさしの『印象派』というアルバムに収録されていた『検察側の証人』
歌詞が惹きつけますね。さださん、若い!
最高傑作といわれる『夢供養』の次に出されたアルバムで、一般的な評価は低く、さだまさしもスランプに陥ったと、今でも語られるアルバム。
タイトルはアガサ・クリスティの同名の小説にインスパイアされてつけた。
「当人同士は自分は本当のことを言ってると信じているんだけども、自分が本当だという意見が3つ出てくると、それぞれに矛盾があるんだけども、誰が本当のことを言ってるんだか客観的には分からない、それをよく我々はなんだかまるで薮の中だななんて言い方をします。
そして結局悲しいけれど、収まる場所は力のあるものに押し切られてしまう。
ひとりの力は小さくて切ないけれど、みんなの力が集まれば何かができると思うんだけれども、人間というは3人寄れば派閥ができるというくらいで、正しい行いをしようとしていると、自分の心のなかですら今自分が行おうとしていることは本当に正しいことなんだろうか、それとも偽善なんだろうか、これは間違ったことなんだろうか、自分の中に自分に対する猜疑心が出てきたりします。
本当のことを誰が言っているか、いったい自分は本当のことを言っているか。本当っていったいなんだろう?
真実というのはひとつではないんだろうか? 事実というのはひとつでも、真実がひとつとは限らないんですね。
これが我々が心で生きている生き物である理由なんですよね。事実というのは誰が言ってもかくかくしかじかでこうなった、この事実は揺るがないんだけれども、なぜそうなったのかということについては10人いれば10の意見が出てくるものなんですね。」
(さだまさしステージトークより)
谷村新司さん。
2023年3月急性腸炎のため入院。6月よりアリスの全国ツアーを控えていたが、ドクターストップにより休止した。
同年10月8日死去。74歳没。
さだまさしのコメント
少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名されコンプレックスを感じていた。谷村は、歌を褒められることが多く、特に音楽に関心は無かったが、女にモテるためにはバンドを組んでリーダーをやらなければと思い、高校1年生の時にギターを購入して練習を始めたという。
高校在学中に同級生の山本峰幸と、友人のガールフレンドの妹で声楽をやっていた3歳年下の島津ちづ子の3人でバンド「ロック・キャンディーズ」を結成する。谷村が19歳のときに森の宮の厚生年金ホールで初めてのコンサートを行う。
ロック・キャンディーズは大阪と神戸で絶大な人気を誇る。
1970年、後にアリスの所属事務所「ヤングジャパン」社長となる細川健と知り合う。細川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」のドラマー矢沢透と知り合い意気投合。帰国したら一緒にグループを組もうと約束する。
このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構想ができつつあった。このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機会があり、ジミー・ペイジの独特のギター・プレイに圧倒されたという。
同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機会にも恵まれ、「当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運」と谷村本人が語っている。
帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。
堀内孝雄の「ベーヤン」は、堀の字つながりの赤穂浪士・堀部安兵衛から。
矢沢透の「キンちゃん」は、顔が落語家の柳家金語楼に似ていたからという。
谷村新司がアメリカに行った時、カリフォルニアにあるUCLA(大学)内にある
「アリスのレストラン」の「アリス」のロゴがカッコ良かったため、との説がある。
1971年12月25日、谷村、堀内の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。
1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。
同年5月5日、矢沢が正式に合流し現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。
デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の「今はもうだれも」のヒットを契機に、「冬の稲妻」「涙の誓」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「狂った果実」等のヒット曲を連発する。
アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。ソロ名義でのアルバムやシングル制作、他の歌手への楽曲提供(山口百恵の「いい日旅立ち」など)を精力的に行う。アリスとは異なる音楽世界は、1979年の「陽はまた昇る」を経て、1980年の「昴」で一定の完成をみる。 (Wikipediaより)
「帰らざる日々」は、アリスの8枚目のシングル。1976年4月5日に東芝EMIから発売された。
1978年に公開された藤田敏八監督の映画『帰らざる日々』の主題歌に採用され、同年再ヒットした。
作詞した谷村新司曰く、この曲は「女の子が睡眠薬を飲んで、電話越しに自死していく様子を歌った歌」ということで、最初はブレイク前のアルフィーに提供するつもりで作ったが、その提案を受けた坂崎幸之は「ちょっと僕らには重いんじゃないですか」と返答して辞退したという。
アリス『帰らざる日々』の元ネタとして知られる荒木一郎のシングル。
荒木一郎。謎の男。
9歳で舞台デビューして、22歳で歌手デビュー。
日本のシンガーソングライターの先駆者。
デビュー翌年の1967年には「いとしのマックス」で紅白歌合戦出場。
紅白出場から2年後の69年には暴行事件で逮捕。
その後歌手・俳優として復帰する一方でマネージメント業で成功。プロデューサーでもあり。
切手収集家。将棋はアマ四段。そしてマジシャン。
ともあれ『君に捧げるほろ苦いブルース』は、荒木一郎が1975年にリリースしたアルバムのタイトル曲。
死別した恋人……と想像される相手に歌いかける。
“すぐに行くよ”“君と同じとこへ”“夏になれば”“君のいる処へ……”という、ほとんど後追い自殺をほのめかすかのような歌詞が、クラリネットやマンドリンをフィーチュアした、ディキシーランド・ジャズとブルーグラスを折衷したような、もの悲しくも妙にほのぼのとしたアレンジで歌われる、なんとも不思議な曲。
そしてコレ、実は愛猫の死を悼んで作られた歌だということで。
それにしてもこのサビ……
谷村さんは、「荒木さんの歌に影響されて作った」と自ら語っています。
https://lsdblog.seesaa.net/article/201701article_5.html
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