第16話 小澤征爾 N響事件

文字数 4,920文字

今から十数年前、映画『シャイン』のモデルになったピアニスト、デイヴィド・ヘルスゴットのリサイタルに、昭和記念講堂に行ったとき……、前の方の席にいた方は?

あの髪型は小澤征爾さん?

 小澤征爾(おざわ せいじ)(1935年〈昭和10年〉9月1日 - )は、1973年からボストン交響楽団の音楽監督を30年務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた、世界的な指揮者。


小澤征爾 ザ・リハーサル1992 齊藤記念フェスティバル

 満洲国奉天市生まれ。小澤家の第三子。

 1945年、長兄の小澤克己からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と次兄とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

 1948年4月、成城学園中学校に入学。当時、小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学していた。

 中学ではラグビー部に所属する傍ら、豊増昇(とよますのぼる)にピアノを習う。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合で大怪我(雨の試合でスクラムで右手人差し指を骨折した)をしたためピアノの道を断念。


ピアニスト豊増昇(とよますのぼる)は、日本人として初めてベルリンフィルと共演した。戦後と現代の日本で活躍している、あるいは活躍したピアニストの多くが、豊増昇の薫陶を受けている。

少年時代の小澤征爾が、ラグビーで指を骨折し、ピアノを諦めようとした時、「指揮という道もあるよ」と言って新しい道を拓いてくれたのは豊増昇だった。


 1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。同門に山本直純がいる。

 当時、癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった。

 1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現:桐朋学園大学音楽学部)へ進学。

 1957年夏に同短期大学を卒業。4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり、のちに追試を受けて卒業が認められたが、療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだという。

 ただし、このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている。


 短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振り始め、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。

 1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会にて、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める。 

 1958年、「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる。しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達。


 1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスに渡る。このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは渡欧について猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた。


子どものための音楽会 ベートーベン『運命』

 1959年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。

 ヨーロッパのオーケストラに多数客演。

 カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。

 1960年、アメリカ・ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。

 1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。

 カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。


タングルウッド 素顔の小澤征爾

小澤征爾とNHK交響楽団が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。

翌1962年には、半年間、客演指揮者として契約。当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。

7月4日にはオリヴィエ・メシアンのトゥーランガリラ交響曲日本初演を指揮するなど小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行でN響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された。

直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。


小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった。

このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。


 このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている。原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのがN響から反感を買った一因だったと述べている。

 東南アジア演奏旅行における小澤はホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、「38度の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」と虚偽の弁解を並べて開き直ったためにN響の信頼を失ったといわれる。ただし小澤自身は、

「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。

 このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」

と反論している。

 後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリーで、小澤はこの事件の背景について

「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」

との趣旨の発言で振り返っている。しかし原田三朗はこの見解を否定し、

「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。

 楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。

 遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」

と述べている。

 この時期、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。


 この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、青柳正美、秋山邦晴、浅利慶太、安倍寧、有坂愛彦、一柳慧、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、梶山季之、曽野綾子、高橋義孝、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫、村野藤吾、山本健吉、由起しげ子が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。

 小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。

 三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、

「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。

 私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。

 今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」

「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

と概括した。


 結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。

 しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になって、よく勉強したとも述懐している。


 1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、以下の曲目を演奏した。


J. S. バッハ:『G線上のアリア』(阪神・淡路大震災犠牲者追悼)

バルトーク:管弦楽のための協奏曲

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番サラバンド(阪神・淡路大震災犠牲者追悼。ロストロポーヴィチの独奏)

 なお、小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「(「小澤事件」を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」という趣旨の発言をしている。


32年ぶりのN響とのコンサート。YouTubeで観られますが、貼り付けられません。

https://youtu.be/RsSd_yTD8Ho?si=I5kwB9I_XObHz77_

曲の終盤からなので、聞いたことはあるけど、なんの曲かわからなかった。

情けない。

小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を4年ぶりに指揮。国際宇宙ステーション(ISS)の若田光一宇宙飛行士に向けて生でベートーヴェンの「エグモント序曲」を届けた。

 史上初めてオーケストラの演奏が、宇宙にひびく。そして、地球にいる私たちがひとつになる。

『エグモント序曲』は池田理代子さんのマンガのタイトルにあって、何度も聴いた曲。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色