第25話 不機嫌な理由

文字数 5,832文字

 某サイトの作品を読んで彼が不機嫌だったわけがわかりました。こんなエッセイを投稿しているのに知りませんでした。
 その日は、好物のマカロニチーズのチーズの量が少なかったから……
 彼はコーヒーとお酒が大好きで、ビールを飲みながら煙草を吸うのが楽しみだった。

 コーヒーは豆の数が常に60粒でなければダメというこだわりよう。

 私もコーヒー豆を数えてみた。60粒で8グラム。(私はマグカップなので12グラム)

 彼の食生活は決して高価なものではなかった……らしい。

 教科書などにのっている彼の顔が、少しこわい顔になっているのは、

 その日の朝食のマカロニが茹ですぎだった、という説もある。

 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。

 またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであった。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 ドイツの作曲家、ピアニスト(1770年12月16日頃-1827年3月26日)

 音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。

 その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。(Wikipediaより)    

 神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれた。マリアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみ。ルートヴィヒは長男になる。


 父ヨハンは宮廷歌手であったが、無類の酒好きで収入は途絶えがちだった。

 ベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けた。


 1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。

 カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を

「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」

と語ったという。


 ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った。母は2か月後の7月に死没した。

 一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった。


 1790年12月には、当時絶頂期だったハイドンがボンに立ち寄り、ベートーヴェンの才能を認め、1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。

 1792年11月2日の早朝に出発し、1週間かけてウィーンに到着した。


 1792年12月18日には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは葬儀のためにボンに戻ることはなかった。

 1792年11月~1794年1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っているが、父ヨハンの葬儀に関する記録は全く残っていない。


 ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々に名声をあげていき、4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。


『彼は演奏の稀にみる速さによって広く称賛されており、最も手強い困難な箇所をいとも簡単に習得してしまうことで驚きを与えている。

 すでに音楽の内なる聖域に入ってしまったようで、正確さ、感性、趣味において傑出している。~中略~ 

 このような非常に偉大な天才が、その実をこれほど優れた大家たちの指導下に置いたとあれば、そもそも期待できないことなどあろうか! 

 彼は既に数曲の美しいソナタを作曲している。その中で最も新しいものは、特に傑出したものと評価されている」

(1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評)

 身長は165cm前後、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。

 肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。

 表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

 服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。

 

 弟子のチェルニーは初め会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。

 また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。

 部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。

 また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。


 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。

 人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。

 親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。

 癇癪持ちであったとされ、女中に物を投げつけるなど、しばしば暴力的な行動に出ることもあったという。


 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられたときは、 

「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」

と突っぱねた。

 パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、

「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」

と書き送っている。


 このような「場をまったくわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

 また、後援者のリヒノフスキー家に下宿している際に正餐のために毎日4時に集まるように言われると、それを断り、

「毎日、三時半に家に帰り、服を着替え、髭を剃ったりしなくてはならないのか? まっぴらごめんだ!」

とヴェーゲラーに述べている。


 テプリツェでゲーテとともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、彼は昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。

 のちにゲーテは

「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」

とを評している。

 交響曲第3番『英雄』は、フランス革命後の世界情勢の中、ナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。

 しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒した彼は

「奴も俗物に過ぎなかったか」

とナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた、という逸話がよく知られている。

 しかし、このエピソードは弟子のシンドラーの創作であるとする説が有力視されている。

 彼は終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取り止めたという説もある。

 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られる逸話は、自称「無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。

 しかし、この人物は彼の死後、資料を破棄したり改竄を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。


 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

 かつて彼は醜男でモテないため生涯独身だったといわれていたが、今は顔もそこそこで天才ゆえにかなりモテたとみられている。

 しかし恋する相手が概ね貴族など名家の娘や夫人だったため結婚には至らなかったようだ。

 実際彼の生涯を彩る女性は数知れず。それに関して重要なのは1812年に書かれた「不滅の恋人への手紙」だろう。

「不滅の恋人」が誰か? 

は長年論議の的だったが、現在では大富豪の妻アントーニエ・ブレンターノであることがほぼ確実視されている。 そしてまたこの時期は、10年来の恋人だった貴族の人妻ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックの存在も見逃せない。1813年に彼女は女児を産んだ。そのミノナなる娘が彼の子ではないかとの説がある。むろん不確定だが、ミノナ(Minona)の綴りを逆から読んだ「Anonim」は「匿名、作者不詳」。何やら意味深だ……。

 これらは氷山の一角に過ぎず、20 - 30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。

 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラヴィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。


 19世紀に実用化していたメトロノーム解読には二つの方法がある。
① 振り子の左右往復 (tic-tac) をもって1拍とみなす = double-beat method

② 振り子の片道 (tick) を1拍とみなす = single-beat method

 現代の主流が ② であることは、言うまでもないが、これに従えば、19世紀のメトロノームの数値はことごとく意図されたテンポの2倍速で演奏される事態となる。

 はじめてこれを耳にする者にとっては青天の霹靂……

 

ハンマークラヴィーア第1楽章 辻井伸行
ハンマークラヴィーアをゆっくり弾いてみたら優しさに溢れていることがわかった

期間限定で削除されてしまいます。

メトロノームが生まれるまでの音楽は、「テンポ・オルディナーリオ(普通のテンポ)」というおおよその脈拍の速さを基準とし、速度記号によって、若干テンポを調節して演奏されていた。しかし言葉だけでは具体的なテンポはわからない。脈拍は人によって違う。

 実用的なメトロノームの誕生は、1815年のこと。

 普遍的でない速度記号に不満があったベートーヴェンは、具体的な数字で理想のテンポを示せるメトロノームの有用性に目をつける。

 そして「ライプツィヒ音楽新聞」に、それまで作曲した8つの交響曲のメトロノームテンポを掲載した。

 その後もメトロノームの速度表示を自身の作品に導入したベートーヴェンは、楽譜出版社ショットへ

「もはやテンポ・オルディナーリオ(普通のテンポ)の時代は終わりました。これからの音楽は自由なひらめきを尊重すべきなのです」と書き送っている。

 こうして「普通のテンポ」の壁を打ち破り、音楽にさまざまなテンポをもたらすきっかけを作ったベートーヴェンは、メトロノームの形をした墓石の下で眠っている。

 ベートーヴェンの全ソナタの中でも特別な作品として語られることが多い《ハンマークラヴィーア(ピアノというドイツ語)》。

 この曲だけ《ハンマークラヴィーア》という呼び名が残ったのは、恐らくリストやシューマンなど後続の作曲家が高く評価したことも関係している。

 さらに重要なことは、このソナタを彼らが体感したことで、ピアノ・ソナタを書くことをやめてしまったということだ。

 ベートーヴェンの後の世代の作曲家たちは、ピアノ・ソナタの発表にかなり慎重だった。シューマンとショパンは3曲、リストは1曲、ブラームスも若いころに3曲。この《ハンマークラヴィーア》は、後世のドイツ作曲家に立ちはだかる巨大な壁だったのかもしれない。


 この長大なピアノソナタを single-beat で弾いてみよう。ほぼ演奏困難に近い高速に唖然とする。

 それでも作曲者の指図に忠実であろうと努めるピアニストの名人芸がある。ただ演奏はめっぽうせわしくなる。


 ではこれらの数値を、2倍遅くなる double-beat で読んでみるとどうなるか? テンポの半減が楽想に与える影響は莫大であり、その結果、音楽の中身が勝ちえることになる豊かな味覚の密度は格別のものだ。特急列車の車窓から眺める景色と、徒歩で行く道すがら野の花と愛を語らう蜜蜂にまで目が届く状景との違いだ。


 ベートーヴェンが《ハンマークラヴィーア・ソナタ》を double-beat method で把握していたことに疑いの余地はなさそうだが、第3楽章  (Adagio sostenuto/8分音符 = 92))を double-beat で弾くと、およそ30分を要する長丁場となる。

https://www.suguruito.com/memorandum/metronom

https://ontomo-mag.com/article/playlist/oyasumi320-20201030/

を参考にしました。

『ハンマークラヴィーア』は第32話 演奏不可能 「50年経てば人も弾く!」に投稿しています。

『第九』はCD1枚に収録できる時間の基準になったとの逸話があり、その時間は74分だ。一方、メトロノーム表記通りだと63分ぐらいになる。

『メトロノーム表記を尊重すべきでは』となり、1970年代に当時の演奏法で演奏する動きが出てきた。

『昔はもっと速かった』という話が1990年代には世界的に広まって、解釈が色々と分かれることになった』

 1817年(第9交響曲を作曲中のころ)、

「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」

という詩人クリストフ・クフナーの質問に対しら彼は即座に「エロイカ(英雄)」と答え、

「第5交響曲(運命)かと思いました」

と言う言葉に対しても

「いいえ、いいえ、エロイカです」

と否定している。  

エロイカの主題による 15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 op.35

(Pf) グレン・グールド

1970年グレン・グールドがリサイタルで好んで取り上げた曲目。
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