第17話 カラヤン ザビーネ・マイヤー事件
文字数 2,332文字
【ザビーネ・マイヤー】
西ドイツ(当時)のバーデン=ヴュルテンベルク州クライルスハイム生まれ。クラリネット奏者の父親から手ほどきを受けて、少女時代からクラリネットを吹き始める。シュトゥットガルト音楽院で専門教育を終えた後、1979年ボンのドイツ音楽コンクールで第2位入賞。バイエルン放送交響楽団にクラリネット奏者として入団する。芸術監督兼終身指揮者であったヘルベルト・フォン・カラヤンはマイヤーに強い関心を示したが、楽団員の総意は
「マイヤーの音には、当団の管楽器奏者にとって不可欠の、厚みと融合性が欠如している」
というものであった。マイヤーを仮採用(1年間)するか否かの楽員投票がなされない状況で、マイヤーはアメリカ公演(ライスターは不参加)に、カラヤンの指名で客員首席クラリネット奏者として参加したが、翌1982年晩秋の楽団員全員による投票で、マイヤーの仮採用は否決された。
1981年4月のザルツブルク復活祭音楽祭で、カラヤンは音楽界の「顔」として、ドイツ・グラモフォン、フィリップス、ソニーと共に「コンパクト・ディスク・オーディオ・システム」を世界で初めて披露した。
CD時代の始まりである。
知名度、影響力、財力、いずれの面でもカラヤンは抜きん出ていた。8月に先輩指揮者カール・ベームが死去したことで、カラヤンの発言力はさらに強まるはずだった。
が、そういう状況を快く思わない者もいた。
「カラヤンはあまりに長い間、権力を独占してはいないか」
そう考え、妬む者はベルリン・フィル内部にもいたのである。
1968年 ベルリン・フィル
決裂の火種となったのは、ザビーネ・マイヤーという弱冠21歳の女性クラリネット奏者。
81年1月、ベルリン・フィルのオーディションを受けたマイヤーの演奏を聴き、カラヤンは「彼女以外にいない」と言った。一方、オーケストラ側は初の女性奏者を受け入れることに難色を示した。
マイヤーは試験採用すらされず、フリーの代理奏者として契約された。
82年11月、オーケストラ内で最終的にマイヤーを試験採用するかどうか投票が行われ、不採用と決まった。
ただ、事前に女性ヴァイオリン奏者マデライネ・カルッツォを試験採用することで、マスコミから女性差別批判が出ないよう手を打っておいた。
オーケストラは
「カラヤンの意のままにはならない」
と意思表示したも同然だった。
当然、カラヤンは激怒した。彼は契約に定められてある最低限のコンサート数をこなす以外、ベルリン・フィルとの活動を中止すると宣告した。
このままでは確実にベルリン・フィルの収入は激減する。総支配人ペーター・ギルトはマイヤーに仮採用の契約書を発行した。これに怒ったオーケストラはギルトの解雇を要求、大臣も巻き込んでの騒動となり、事態は泥沼化した。
この頃から、カラヤンはウィーン・フィルに接近してゆく。
1978年 ベルリン・フィル
ウィーンフィルハーモニア 1960年
83年6月、カラヤンは脊髄の大手術を受けたが、7月のザルツブルク音楽祭で復帰。ウィーン・フィルと共に得意の『ばらの騎士』を大成功に導いた。
84年5月、マイヤーが採用投票を辞退。6月にはギルトが事実上解雇された。ギルトの後任は、すでに引退していた老練のシュトレーゼマン。カラヤンは不服だったが、彼としてもこの辺でそろそろ歩み寄らなければならない事情があった。
82年に新設した映像制作会社「テレモンディアル」で手がけているベートーヴェンの交響曲全集が、まだ完成していなかったのである。これまで撮りためてきたベルリン・フィルとの演奏フィルムを破棄すれば、大損害を被ってしまう。
84年秋、カラヤンとベルリン・フィルは和解した。しかし、両者の関係は元に戻らなかった。すでに彼にとって大事なオーケストラはベルリン・フィルではなくウィーン・フィルになっていた。85年6月、教皇ヨハネ・パウロ2世により聖ピエトロ大聖堂で挙行されたミサにも、カラヤンはウィーン・フィルを率いて参加したのである。
https://www.hmv.co.jp/news/article/901280102/
1966年、ベルリン・フィル。
この「ベルリン・フィル入団騒動」でマイヤーはかえって有名になり、以来世界の100か所以上を回って、数多くの主要なオーケストラと共演する、世界屈指のクラリネット奏者となった。
室内楽や協奏曲の演奏・録音に取り組んでおり、中でもモーツァルトやウェーバーの解釈で高い評価を得ている。
1993年からリューベック高等音楽院(ドイツ語版) 教授の職にある。
https://otomamire.com/sabine-meyer/
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