第3話「放課後の個別指導」

文字数 4,358文字

 女の子と2人きりで勉強を教えるなんてもちろん初めてだ。僕はこれからデートをするような気分でドキドキしていた。実際にはしたことがないので、"デートをする気分"なんて知らないのだが。

 学校の時間から解放されたクラスメイト達は、それぞれの目的地に向かって教室を出ていった。僕は帰る準備に手間取っている振りをしながら席に座っていた。
 教室から人の気配がなくなった頃に恐る恐る彼女の方を見てみると、あの笑顔で僕に向かって小さく手を振っていた。
 彼女は教科書や筆記用具を大事そうに抱えながらゆっくりと歩いてきた。こちらに一歩ずつ近づいてくる度に僕の鼓動は速くなった。

「隣、座っていい?」
「構わないよ。」
 そこは僕の席じゃないので許可する権利はないが、彼女に座られて悪い気がする人間はいないだろう。

 7月中旬の猛暑日で、外ではセミが鳴き始めていた。彼女は僕の左隣の机をこちらに近づけて席に座ると、「暑いね」と言いながらスクールシャツの一番上のボタンを外した。僕は気づいていないふりをした。それから下敷きで首と胸の中間辺りを仰ぐと、花のような香りがこちらに届いた。程よく膨らんだ彼女の胸に横から気づいてしまった僕は、机の下で勃起した。
「そんなに見られたら恥ずかしいじゃない。」
「ごめん。」
 僕は慌てて顔を背けた。彼女の胸を見ていたことに気づかれたかもしれない。僕はとんでもない大罪を犯してしまったような気分になった。“穴があったら入りたい”とはこういう時に使うのだろうか。これは慣用句としての意味で、他意はない。
 彼女は反省している僕の方に軽く目をやって、クスリと笑った。

「実は数学のテストを返された時に、あなたの100点が見えちゃって。」
「そうなんだ。」
「ごめんなさい。盗み見るつもりはなかったのよ。」
 彼女は不安そうにこちらの顔を覗き込み、僕は思わず目を逸らした。
「気にしていないから大丈夫だよ。」

 僕は数学の道具を準備をしながら、思い切って彼女に話しかけてみた。
「君には苦手なものなんて無いのかと思ってたよ。」
「そんなことないわ。私って暗記は得意だけど、数学みたいな応用する科目は苦手なのよね。」
 彼女にも苦手なことはあるらしい。
「あとは朝起きる事とか、虫とか、お化け屋敷も苦手よ。」
 可愛い。
「君は先生からもよく褒められているから、勉強は全て得意なのかと思っていたよ。」
「定期テストのレベルなら問題ないけどね。それに、」
 彼女は無表情で斜め下に目線をやった。

「私って可愛いじゃない?真面目でいい子だし。だから、それらしく振舞っておけばみんな騙されるのよ。本当の私がどんな人かも知らないくせに。人間なんて大嫌いよ。気持ち悪い。みんな死んじゃえばいいのに。」

 唖然として言葉が出なかった。あの完全な彼女がそんなことを言うなんて思いもしなかったからだ。僕は何も考えられなくなり、そこで時間が止まった。
 彼女は自分の発言に遅れて気づいたらしく、目が覚めたように はっとして慌て始めた。目は泳ぎ呼吸は乱れて、貧乏ゆすりをしながら指をいじったり、しきりに口元や髪を触ったりしていた。
「あの、えっと、その、」
 彼女は何を言えばいいか分からないといった様子だった。
 僕は彼女を抱きしめたい、彼女と性交したいと本気で思い、おそらく人生で一番激しく勃起した。

“人は不完全だからこそ美しい”

 それから彼女は深い溜め息をつくと、両手で顔を抑えて黙りこくった。

 静寂。

 彼女は顔を覆った手の中で何か呟いているような気がしたが、何も聞き取れなかった。

 彼女が黙りこくってから30分は経ったような気もするし、2時間と言われても納得できる。それくらい長く感じた。

 彼女は顔を覆っていた手を少しだけ離し、恐る恐るこちらに目線を向けた。
「あの、死んじゃえとか言ってしまったけど、それにあなたは含まれてなくて、これは本当よ、あなたは違うの。それから、えっと、その、」
「大丈夫だよ、落ち着いて。」
 彼女は再び両手で顔を抑え、10秒ほど黙って深呼吸した。
「わがままを言って申し訳ないけれど、さっきのは誰にも言わないでほしいの。」
「言わないよ。そもそも僕に話し相手なんていないから安心して。」
「ごめんなさい。」
「謝る必要はないよ。」
「本当にごめんなさい。」

 ようやく彼女の呼吸は落ち着いてきた。
「勉強は…どうしようか。」
「そうだったわね。そろそろ始めましょうか。時間を取ってくれたのに、本当にごめんなさい。」
 こうして僕の個別指導が始まった。時間が経つに連れて彼女は落ち着きを取り戻し、元の笑顔に戻っていった。
 彼女が僕のノートを覗き込むように顔を近づけてくる時には、やはり鼓動が速くなった。また花の香りがした。彼女の胸元を見ないよう自分を律するのに ひどく苦労した。
 僕は先ほどの彼女の発言については考えないようにした。しかし考えまいと思うほど余計に考えてしまっていた。
 彼女は早口で色々と話していたので詳細は思い出せない。ただ普段の彼女が天使だとすれば、先程は悪魔のような状態になっていたことは確かだ。
 今でも信じがたいが、完全に見えていた彼女にも腹黒い部分があるようだ。実は彼女も他の人と同じような普通の、不完全な人間なのだろうか。しかし勉強を教えながら彼女の笑顔を見ているうちに、そういうことも自然と忘れていった。

 三角関数の応用問題を終えたところで僕らは休憩することにした。彼女は水を一口飲んだ後、また下敷きで首元を仰ぎながら言った。
「あなたは数学が得意なのに、どうして文系にしたの?」
「楽そうだからだよ。」
「そうなんだ。」
 彼女は真剣な顔で次の言葉を探した後に僕の目を見つめた。

「私ね、あなたが優しい人だってこと知ってたよ。」
 僕は戸惑いながら全力で頭を回転させた。
「“知ってた”というのは、どういうこと?」
「うーん。」
 彼女は自分の髪を確かめるように触りながら返答を考えた。
「内緒。」
 彼女は時々こういう話し方をする。それも人を惹きつける理由の1つなのだろう。

 この人の魅力は やはり先天的なものだろうか。見た目の美しさは遺伝だとして、可愛い振る舞いや発言の仕方もDNAに刻まれていたのだろうか。これほどの力を後天的に学習で身に着けたとも考えにくい。そんなことを考えながら30分ほど数学を教えた頃、僕の授業は終了した。
 僕らは荷物をまとめると、並んで階段を降りていった。下駄箱で外靴に履き替えたところで彼女が言った。
「今日は本当にありがとう。」
 彼女は僕の目を真っすぐ見つめながら微笑んだ。幸せな時間を過ごさせてもらったのだから、お礼を言うべきなのは確実に こちらの方だ。そして僕は相変わらず目を合わせられなかった。
「構わないよ。」

 少し歩いたところで、彼女はグラウンド横の自動販売機を指差した。
「お礼に何か奢るわ。」
「気にしなくていいよ。」
 彼女は2人分の小銭を入れながら僕の顔を見た。
「いいから1つ選んで。」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。」
 僕が100円の缶コーヒーのボタンを押すと、彼女はクスリと笑った。
「やっぱりね。」
「どういうこと?」
「何でもないわ。」
 またこれだ。彼女が意味深なことを言う度に僕は考えさせられて、彼女の沼にハマっていく。

 彼女はバス通学で僕は自転車のため、バス停まで一緒に歩くことになった。しばらくの間、お互い黙ったまま並んで歩いた。
 彼女の隣を歩いてみてようやく気づいたのだが、僕らは20センチほどの身長差がある。僕の肩くらいの高さに彼女の頭があるので、彼女が僕の顔を見る時は必ず上目遣いになった。その度に僕の顔は熱くなる。
 僕らは学校や趣味のことなど他愛のない話をしながら歩いた。
 彼女はディズニーが好きらしい。それを聞いた時、テーマパークのスタッフみたいに笑顔で同級生と接する彼女の姿を思い出した。

 彼女は足元を見ながら溜め息をついた。
「私のこと嫌いになったでしょう?」
「どうしてそんな事を聞くの?」
「だって、」
 そこで言葉を止めた。僕は彼女が言いたかった事を考えてみたが、分からなかった。その答えに手が届きそうで届かない。彼女を前にすると色んなことを忘れていってしまうのだ。

 僕らがバス停に着くと ちょうど目的のバスが来たので、彼女は乗り込んで一番後ろの席に座った。バスが発車すると、彼女はいつもの笑顔で僕の方に小さく手を振った。僕も ぎこちなく手を振り返した。小さくなっていくバスの背中をしばらく眺めてから、僕は自転車に乗り帰路についた。

 僕は帰宅してベッドに横たわると、ぼんやりと彼女のことを考えていた。ただ何を考えればいいのか分からなかった。まるで素晴らしい映画や音楽ライブを観た後のような抜け殻の状態だった。僕は毎日欠かさず1階の猫を撫でていたのに、その日だけは忘れていた。

 夕食を終えて再び部屋に戻ると、携帯に1件のメッセージが入っていた。彼女からだった。母親以外の女性からメッセージが届くのはもちろん初めてなので、僕は恐る恐る彼女からのメッセージを開いた。
「ごめんなさい。クラスのグループに入っていたから、勝手に連絡しちゃったの。今日は本当にありがとう。」
 僕は“返事を入力しては削除して”を何度も繰り返し、15分ほど経ってようやく送信した。
「構わないよ。また何かあったら協力するから。」
 1分ほどで彼女から返信が来た。こんなに早く返ってくるものなのか。まあ僕が悩みすぎているだけで、興味がない相手に対してはこれくらいで返せるのが普通なのだろう。

「申し訳ないんだけど、今度は生物を教えてくれない?」
「構わないよ。」
「ありがとう。いつが都合いいかな?」
「僕は暇だし、いつでもいいよ。」
「それなら明日はどう?」
「問題ないよ。」
「ありがとう。じゃあ放課後の教室で待ってるね。また明日。」

 おそらくこれが恋愛というものなんだろう。

 “生きる意味なんて無い”と思いながら過ごしてきた自分が誰かのことを好きになるというのは不思議な感覚だった。その日は久しぶりに自慰行為をしてから眠った。

 翌日。教室に着くと、彼女はいつものように同級生から周りを囲まれ、テーマパークのスタッフをやっていた。
 僕は自分の席に着いて昨日のことを思い出そうとしたが、頭が回らなかった。
 ぼんやりと彼女を眺めていると、不意に周りの群衆が散って彼女と目が合った。僕が慌てて目を逸らそうとしたところで、彼女はいつもの笑顔でこちらに小さく手を振っていた。僕は顔が熱くなり、軽く会釈してから前を向いた。
 それからは彼女の顔を見れずに学校の時間が流れていった。

 放課後のチャイムが鳴る。昨日と同じように彼女は僕の左隣に座り、2日目の個別指導は始まった。
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