三、

文字数 1,831文字

三、
 私たちは世間一般の姉弟の例を逸脱する程に似ていた。体格や上背が近い上に寒い校内で厚着をすることもあり、背後から声をかけられる際に取り違えられる事態がままあった。
 しかし、肩幅や立ち居振る舞いは男女のそれで全く違う。もしあの時、彼女に僅かにでもそれに注力するほどの余裕があれば。ほんの一瞬だけでも、私が彼女へ振り向くのを遅らせていれば。私は、弟に向けられた女生徒の恋文を目にすることはなかっただろう。
 私はその日冷静でなかった。生徒の教育方針について、ある教師と喧々諤々の口論になったのだ。互いに一歩も引かずに自分の論を主張していた。弟に仲裁に入ってもらわなければ、きっと日が暮れるまで言い争っていただろう。
 その際に弟が比較的私の肩を持つ発言をしていた事も併記しておかなければならない。私はその時ほど弟の存在とその人格を愛おしいと思ったことはなかった。大げさなようだが、短絡的になっていた私はその時の弟をいつもより過大に評価していた。自分と近い存在が自分の考えに同調して他の人間と相対している。これほど心の満たされることはなかった。他にも私の肩を持ってくれた教師も居たはずなのに、どうしてか弟の擁護ばかりが私の頭を占有した。世界中が敵に回ったとしても、彼だけは私の味方をしてくれるに違いないと自惚れた独占心さえ抱いた。
 そんな折だった。切り揃えたばかりの髪と地味な普段着。夕暮れの宵闇が人影を朧にする時間帯だったせいもあるだろう。片割れの面影をその血と体に滲ませた私の元へ、弟の名を呼ぶと共に恋文を差し出す女生徒の姿があった。
 香水でも垂らしたのか、桃色の封筒からは甘い香りが漂っていた。可愛らしい猫の意匠を施した髪飾りを身に着け、唇には目に痛いほど明るい色調の口紅が塗られている。いずれも規則で制限されているから、弟に見せる一時のためだけにわざわざ拵えたのだろう。そのいじらしい努力の翳が私の心を逆撫でした。激しい怒りと嫉妬、そして後悔の記憶。冷えた頭が再点火する音を私は聞いた。
 結論から言うと、私はその場で女生徒の手から恋文を毟り取り、粉々に引き裂いて地面に捨ててしまった。普段なら常より目にしている弟への恋文など気にも留めなかったろうが、その時の情緒不安定と、あまりに急な事態がすっかり私を動転させた。大事な半身である彼の傍らに私以外の人間が居座る場面を想像して、心底恐ろしくなったのだ。
 この事件はあっという間に学校中に広まり、めでたく私には「ブラコン」のレッテルが貼られることとなった。もっともレッテルも何も事実なのだから仕様がない。現に人が想いを綴ったであろう大事な手紙を破り捨てた事はどう言い繕えるわけもなく、人々の風評を私は甘んじて受け入れる他なかった。
 男子からはひゅうひゅうと幼稚な冷やかしが入り、弟に好意のある女子からの評判は地に落ちた。上司からは粗暴に過ぎると大いに叱られ、件の口論相手を含む同僚達からは散々に詰られた。実際に私の行動は糾弾されて然るべきものであるし、私もそれを自覚していたから反論するべくもなかった。父は何も言わなかったが、その目は明らかに非難の色を帯びていた。私にとってはその無言の叱責が一番堪えた。
 そういった事情にあって唯一幸運とも言えたのが、件の女生徒に真の恋心がないらしいことだった。弟に恋文を宛てたのも年頃の女子たちにありがちな「告白ごっこ」とでも言うべき代物で、内容もそれらしく繕ってはいるが中身のない口説き文句がつらつらと並べ立てられているだけだ……と、頭を垂れて謝る私に、女生徒は教えてくれた。それだから私の行動で心の底から傷ついた少女が居なかったことは、一連の不幸の中でただ一つだけの救いであった。
 そうして深刻な被害者が居なかったこと、それはそのまま事件の話題性が私のあまりの過保護ぶりに焦点を当てられたことに他ならず、独り相撲を繰り広げた滑稽さと異質な愛情とが頻繁に取り沙汰された。
 しかし私はこの混迷の渦中にあって、そういった口さがない風説よりも、事件に対し弟がどんな反応を見せるのかという方が気がかりであった。何しろ今回は半ば未遂に終わったとはいえ、弟の個人的な事情について甚だ不躾な真似をしでかしたのだ。叱責はもちろんのこと、軽蔑され、果ては絶縁されてもおかしくはなかった。帰り道、己の軽率さに対する後悔とこれから起こるであろう惨事への恐怖で胸をいっぱいにした私の足取りは重かった。
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