五、

文字数 1,717文字

五、
 人の噂も七十五日と言うが、噂している側はともかく、されている人間にすれば随分長く感じるものだ。人々の間で私の噂が風化しきった頃にはすっかり木々の葉は落ち、寂しげな冬景色に満天の星辰が瞬いていた。
 あの日以来一向に鳴りを潜めていた私への食事のお誘いなども次第に往年の勢いを盛り返し、弟に教えを乞う少女の姿も着々と増えて来たように感じる。ようやく弟と共に居ることに人目を憚る必要が無くなったのだと思うと胸の空くようだった。これまでは二人で歩いているだけで冷やかされていたのだ。過ごしにくいことこの上なかった。
 一方の弟はその類の吹聴などあまり気にしていないようだった。冷やかしを受けても軽く笑って流していた。事件の真っ向たる客体であるにも関わらず、彼がそれを深刻に受け止めている様子はなかった。私が謝罪のために贈る物品も、気にしていないからと言って受け取ろうとしなかった。私がどうしても貰ってくれ、と押し付けると渋々受け取った。弟は終始複雑な表情をしていた。
 中でも最も窮するのは父と対面する時分である。此度は未遂で済んでいるとはいえ、弟に対し異様な執着の兆しを見せた姉の立場というのはもはや罪人のそれである。直に言及こそしなかったものの、交わす言葉の端々に非難の切っ先が潜んでいた。直接的な言葉にものを言わせるのではなく、本人の罪悪感を活用するとは流石騎士団長を務めただけあって生中な技量ではない。しばらく私は父への土産を増やすことに注力した。初めは露骨な機嫌取りに目を矯めつ眇めつしていた父も、愛娘から贈られるプレゼントに気を良くしたのか、やがてすぐに元の通りへ態度を戻した。
 そうこうする内、やがて舞踏会が催される節となった。士官学校の落成を記念する周年祭の折、生徒と教師との垣根を超えた盛大な宴……と言うと聞こえは良いが、要は世俗の間で催される年越しの宴と本質的には変わりない。普段の緊張を和らげるために体裁だけでも整えてくれるのだろう。
 しかし長い間傭兵として剣で渡り歩いてきた私に、踊りの素養などあるはずもない。精々会場に饗される豪華な飯くらいしか楽しみにする余地はなかった。それは私と共に稼業を続けてきた弟とて同じはずだが、なぜかこの時節、彼は平生になく浮かれていたように思った。普段より生返事が増え――もっとも私の他愛のない世間話に乗り気になる方が珍しいのだが――いつもの注意深さは鈍り、舞踏会への興味を隠しきれないでいる。彼の異常に思い当たる節といえば一つしかあるまい。そう、恋の予兆である。
 この学校には一つの伝説がある。なんでも舞踏会の夜、未婚の男女がどこそこで誓いを立てれば、それは女神の加護を受けて必ずや果たされる、といったものだ。たとい規律を尊び清廉を標榜する聖堂学校とて、時にはこのような俗信めいた伝説も生まれる事を思うと、人の営みはどこへ行っても変わらぬものだと確信する。特に思春期盛りを規律で束縛されている生徒たちにとって、この風説はさぞ期待と興奮をもって流布されることだろう。誓いというのも言わずもがな、愛の契りに違いない。
 弟の動揺にはこれが関係していると私は睨んだ。何しろここ最近になって弟へ教えを乞う女子の気配が増えてきている。彼女らもこの伝説を根拠に弟へ接近しているのだろう。油断、というのもおかしな話だが、確かに近頃の私は弟の付近の女子の気配に鈍感であった。しかしそれも当然の話で、もし弟への恋心の尻尾を僅かにでもこの姉の前へ曝け出せば、たちまち彼女らの勇気はかの被害女生徒の恋文の二の舞となるであろう。そのくらいの危機回避を、こと恋愛に関して敏感な生き物である女子らが怠るはずはなかった。
 そうして弟へ慕情を伝えようと画策する女子がはたしてどこの馬の骨なのか、誰何したい衝動に私は駆られた。これは確かに単純な好奇心や野次馬精神の範疇を超えていた。いわば大事な半身を他の者に明け渡すことに対する危機感とも言うべき代物であった。今思えば随分な独占欲であるが、この時の私は姉として、弟の伴侶を見定めるのは当たり前のことだと思っていた。間違いなく存在した仄暗い嫉妬心から、私は目を背けていた。
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