二十九、
文字数 652文字
二十九、
私たちは予定よりずっと早い夜明け前の時刻に来るよう馬車を呼んだ。御者には法外と言えるほどの賃料を渡して黙ってもらった。平生のものと随分趣向の違う服を着て目深に帽子を被り、ふと知り合いが通りがかってもそう易々と見破られる心配はないぐらいの変装を施した。よく顔の見知られた門番とすれ違ったが、我々を見ても不審に思わない様子であった。日の昇りきらぬ空に朝霧が立ち込め、三間先の人影すら朧に映る。まさに失踪にはうってつけの時機であった。
そうして馬車に乗ろうという段になった時、後ろから「もし」という男の声が聞こえた。我々はその声の主を良く知っていた。凍り付きそうになる身体をどうにか抑え、それに返事をした。男は「昨今は物騒ゆえ、気を付けて行かれよ」と言って酒と食料と、青い桃の入った籠を渡してきた。私は弟と一寸目を見合わせ、顔を伏せ気味にしながらそれを受け取った。
「どうも有難う」
そう言って目線をすぐに戻し、元のように馬車へ乗ろうとした。すると、「……もし」という低く唸るような音がした。それは呼びかけのための言葉ではなかった。子供の粗相に忠告する時の親の声であった。
「もし不幸せになったら許さん。必ず幸せに生きろ」
男は背を向けた。朝霧に溶けるようにして去り行く彼の背中に、私たちは小さく「必ず」と返した。男は頭を掻いた。そうして挙げた手を軽く振って歩いていき、そのまますっかり見えなくなった。生まれてより今日に至るまで世話になっていた父親の愛に、我々は感謝と謝罪の念を抱かずにはいられなかった。
私たちは予定よりずっと早い夜明け前の時刻に来るよう馬車を呼んだ。御者には法外と言えるほどの賃料を渡して黙ってもらった。平生のものと随分趣向の違う服を着て目深に帽子を被り、ふと知り合いが通りがかってもそう易々と見破られる心配はないぐらいの変装を施した。よく顔の見知られた門番とすれ違ったが、我々を見ても不審に思わない様子であった。日の昇りきらぬ空に朝霧が立ち込め、三間先の人影すら朧に映る。まさに失踪にはうってつけの時機であった。
そうして馬車に乗ろうという段になった時、後ろから「もし」という男の声が聞こえた。我々はその声の主を良く知っていた。凍り付きそうになる身体をどうにか抑え、それに返事をした。男は「昨今は物騒ゆえ、気を付けて行かれよ」と言って酒と食料と、青い桃の入った籠を渡してきた。私は弟と一寸目を見合わせ、顔を伏せ気味にしながらそれを受け取った。
「どうも有難う」
そう言って目線をすぐに戻し、元のように馬車へ乗ろうとした。すると、「……もし」という低く唸るような音がした。それは呼びかけのための言葉ではなかった。子供の粗相に忠告する時の親の声であった。
「もし不幸せになったら許さん。必ず幸せに生きろ」
男は背を向けた。朝霧に溶けるようにして去り行く彼の背中に、私たちは小さく「必ず」と返した。男は頭を掻いた。そうして挙げた手を軽く振って歩いていき、そのまますっかり見えなくなった。生まれてより今日に至るまで世話になっていた父親の愛に、我々は感謝と謝罪の念を抱かずにはいられなかった。