二十六、
文字数 2,158文字
二十六、
弟の出立まであと少しという所に迫ったある日、私は老教師に用事が出来た。訪ねてみるとあいにく講義中だったので、そっと教室に入って後ろからそれを眺めていた。柔らかい人当たりに庶民的な空気のある彼の元には、貴族出より平民の出身である生徒が多く出席していた。彼もそれを自覚しているのか、固い人生訓ではなく辛い境遇や努力に疲れた人間を励ます言葉を多く採用していた。私はその方針に大いに共感した。
講義の題目は知らないが何でも人類学と心理学を折衷しているようだった。やがて他者と自己の関係性とか、集団における個人の在り方とかについての話に移った。当初あまり真剣に注力していなかった私も、その中のある一節だけは心に残った。それは以下のようなものであった。
――人格とは周囲への反応で構成されている。自己へ回帰する情動も含めその存在の証明は自己のみでは果たせず、何らかへの干渉があって初めて観測される。――然るに、自己とは他者との関わりが作り上げる物に他ならない。他者無き自己は自己無き他者と同様、証明する手立てがないのである。であればそれは存在しない事と同意で――それならば他者に拒絶された人間はどう生きればよいのか? 答えは簡単なもので、やはり拒絶しない他者を見つける他ないのだ。人格によってその難易は多少差があろうが、それでもやはり自己を受け入れてくれる者を寄る辺にするしかない。でなければその者は、孤独という最も人間らしからぬ悲劇に見舞われる事だろう。そうなればそこに居るのはいかに知能が高かろうとやはり境界を失った獣なのである――さて、集団を構成する人間社会では折々それへの所属を拒まれる者がいる。罪を犯した者、相容れ難い人格の者、孤独を好む者、他人を省みぬ者、ただその集団に馴染めなかったというだけの者……。その者らはやがて処罰され、隔離され、追放される。あるいは滅多にない事だが、集団の方が変化して迎合する。決してそのままにする事はない。そして本人らも何らかのアクションを起こす。自己がある限り、他者との関係を変化させるしかないからだ。――あるいは、自らその集団への所属を止めて『逃げる』事を選ぶ者もいるだろう。概ねこれはそういった境地において自己も集団も変化が出来ぬと知った人間に残された最後の手段である。その問題は大抵簡単な物でなく、きっと人間の在り方そのものが変わらぬ限りどうにもならないものだ。それだからその事情への解決の術を知らない限り、我々にその選択を非難する資格はないのである――
一人の生徒が手を挙げた。撫でつけられた髪形に、糊のきいた制服を身に纏っている所から貴族家の嫡子であることが察せられた。
「その状況下において、重要な責任を負わされている者はどうなるのでしょうか」
「同じ事だ。何らかの変化をするか、でなければ先の様な処置を下される。これは個人と集団の関係の論理であるから、責任の有無で変わるという事はない」
「であれば責任ある者が逃げ出しても仕方がない、という事でしょうか」
「状況によるが、その場合は概ね責任を負わしている集団に責があると言える。集団の方に問題があるのはもちろんだが、個人に問題がある場合もその能力を未練がましく使い倒そうという貧乏染みた真似をするのがまず間違っている。そういった人間は早くに駆逐して、より潔癖な構成員で占めるべきである」
不意に、老教師の目がこちらを向いた。一瞬目が合ったように感じたが、すぐに元の調子に戻って教室全体へせわしなく目を運び始めた。私も含め、生徒たちはみな彼の講義に集中していた。
「逆に言えば、個人に問題がなさそうなのにそれが逃げ出すとすれば、それは集団の方に問題があるという事だ。もしそういう選択をする人間が居て、それに君らが少しでも妥当性を感じたなら、まず集団の方を疑ってみるが良かろう。もっとも、それが国家だとか大組織と言った強大な相手であれば難しいかもしれないが……」
授業時刻の終了を告げる鐘が鳴った。生徒らが銘々立ち上がる中、私はいつまでも教室を出ていかなかった。やがて老教師と二人になった時、私は元の用事を忘れて彼に質問をした。
「先生、たとい個人に問題があったとて、その人らが自ずから逃げるのはやはり恥ずかしいことでしょうか。そうするくらいならどれだけ辛くとも放逐されるのを待つべきでしょうか」
老教師は初め要領を得ないような顔であったが、私の表情を見て何事か察したようだった。やがて口角をぐいと持ち上げてこう答えた。
「そもそも逃亡に恥を感じる必要はない。傭兵の立場の君はよく知っていると思うが、騎士道などという誇りを命より重用する絢爛な価値観に固執していては、君、死とか破滅とかいう本末転倒な事態を招きかねんからね」
そう言って教室を去る際に、私の肩を叩いた。これまで多くの人間から貰っていた侮蔑の色の一切ない、純粋に私の人柄を見据えて評価した男からの応援であった。
「他人や社会なんぞのために死んだり辛い思いをするくらいなら、我々の先祖である鼠諸侯と同様、堂々と逃げおおせて自分の本懐を果たすが良かろう」
それを聞いて私の心の迷いはすっかり晴れた。用事のあることを思い出した私は、すたすたと歩み去る彼の背中を追いかけた。
弟の出立まであと少しという所に迫ったある日、私は老教師に用事が出来た。訪ねてみるとあいにく講義中だったので、そっと教室に入って後ろからそれを眺めていた。柔らかい人当たりに庶民的な空気のある彼の元には、貴族出より平民の出身である生徒が多く出席していた。彼もそれを自覚しているのか、固い人生訓ではなく辛い境遇や努力に疲れた人間を励ます言葉を多く採用していた。私はその方針に大いに共感した。
講義の題目は知らないが何でも人類学と心理学を折衷しているようだった。やがて他者と自己の関係性とか、集団における個人の在り方とかについての話に移った。当初あまり真剣に注力していなかった私も、その中のある一節だけは心に残った。それは以下のようなものであった。
――人格とは周囲への反応で構成されている。自己へ回帰する情動も含めその存在の証明は自己のみでは果たせず、何らかへの干渉があって初めて観測される。――然るに、自己とは他者との関わりが作り上げる物に他ならない。他者無き自己は自己無き他者と同様、証明する手立てがないのである。であればそれは存在しない事と同意で――それならば他者に拒絶された人間はどう生きればよいのか? 答えは簡単なもので、やはり拒絶しない他者を見つける他ないのだ。人格によってその難易は多少差があろうが、それでもやはり自己を受け入れてくれる者を寄る辺にするしかない。でなければその者は、孤独という最も人間らしからぬ悲劇に見舞われる事だろう。そうなればそこに居るのはいかに知能が高かろうとやはり境界を失った獣なのである――さて、集団を構成する人間社会では折々それへの所属を拒まれる者がいる。罪を犯した者、相容れ難い人格の者、孤独を好む者、他人を省みぬ者、ただその集団に馴染めなかったというだけの者……。その者らはやがて処罰され、隔離され、追放される。あるいは滅多にない事だが、集団の方が変化して迎合する。決してそのままにする事はない。そして本人らも何らかのアクションを起こす。自己がある限り、他者との関係を変化させるしかないからだ。――あるいは、自らその集団への所属を止めて『逃げる』事を選ぶ者もいるだろう。概ねこれはそういった境地において自己も集団も変化が出来ぬと知った人間に残された最後の手段である。その問題は大抵簡単な物でなく、きっと人間の在り方そのものが変わらぬ限りどうにもならないものだ。それだからその事情への解決の術を知らない限り、我々にその選択を非難する資格はないのである――
一人の生徒が手を挙げた。撫でつけられた髪形に、糊のきいた制服を身に纏っている所から貴族家の嫡子であることが察せられた。
「その状況下において、重要な責任を負わされている者はどうなるのでしょうか」
「同じ事だ。何らかの変化をするか、でなければ先の様な処置を下される。これは個人と集団の関係の論理であるから、責任の有無で変わるという事はない」
「であれば責任ある者が逃げ出しても仕方がない、という事でしょうか」
「状況によるが、その場合は概ね責任を負わしている集団に責があると言える。集団の方に問題があるのはもちろんだが、個人に問題がある場合もその能力を未練がましく使い倒そうという貧乏染みた真似をするのがまず間違っている。そういった人間は早くに駆逐して、より潔癖な構成員で占めるべきである」
不意に、老教師の目がこちらを向いた。一瞬目が合ったように感じたが、すぐに元の調子に戻って教室全体へせわしなく目を運び始めた。私も含め、生徒たちはみな彼の講義に集中していた。
「逆に言えば、個人に問題がなさそうなのにそれが逃げ出すとすれば、それは集団の方に問題があるという事だ。もしそういう選択をする人間が居て、それに君らが少しでも妥当性を感じたなら、まず集団の方を疑ってみるが良かろう。もっとも、それが国家だとか大組織と言った強大な相手であれば難しいかもしれないが……」
授業時刻の終了を告げる鐘が鳴った。生徒らが銘々立ち上がる中、私はいつまでも教室を出ていかなかった。やがて老教師と二人になった時、私は元の用事を忘れて彼に質問をした。
「先生、たとい個人に問題があったとて、その人らが自ずから逃げるのはやはり恥ずかしいことでしょうか。そうするくらいならどれだけ辛くとも放逐されるのを待つべきでしょうか」
老教師は初め要領を得ないような顔であったが、私の表情を見て何事か察したようだった。やがて口角をぐいと持ち上げてこう答えた。
「そもそも逃亡に恥を感じる必要はない。傭兵の立場の君はよく知っていると思うが、騎士道などという誇りを命より重用する絢爛な価値観に固執していては、君、死とか破滅とかいう本末転倒な事態を招きかねんからね」
そう言って教室を去る際に、私の肩を叩いた。これまで多くの人間から貰っていた侮蔑の色の一切ない、純粋に私の人柄を見据えて評価した男からの応援であった。
「他人や社会なんぞのために死んだり辛い思いをするくらいなら、我々の先祖である鼠諸侯と同様、堂々と逃げおおせて自分の本懐を果たすが良かろう」
それを聞いて私の心の迷いはすっかり晴れた。用事のあることを思い出した私は、すたすたと歩み去る彼の背中を追いかけた。