三十、

文字数 393文字

三十、
 後ろから咳払いが聞こえた。見れば独り置いてけぼりを食らった御者が、白けるような目でこちらを見ている。いつまでも崖で寄り添ったままにしている恋人に辟易したのだろう。手持無沙汰といった風な面持ちで手綱を握ったりたわませたりしている。
 飛ばされかけた帽子を押さえながら、馬車の方へ足を向けた。すると後ろから私の名を呼ぶ声がする。何より愛しいただ一人の存在が、それを手に入れるために打棄ったも何もかもの象徴を背にして立っている。弟は言った。
「絶対に幸せになろう、姉さん」
 私は差し出される手を、もう一度強く握った。そうして大きく頷き晴れやかに微笑んだ。私たちは何をおいても幸せに生きねばならない。それは幸福を求める人間としての義務でも願望でもなかった。私たちを見送ってくれた彼に、そうすると誓ったからだった。
 二人は幾度目かも分からない言葉を互いに囁き合って、静かに頬と頬を寄せ合った。
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