六、
文字数 1,732文字
六、
舞踏会と大仰に言っても、貴族の社交のそれと違い豪奢なドレスやタキシードに身を包むということもなかったから、特段目の保養になりはしなかった。むしろ普段よりおめかしに精を入れた生徒らが、普段と変わらぬ制服を着て舞い上がっている姿はいくらか滑稽でさえあった。
私は例によって踊りに興味などないから、振る舞われた料理に舌鼓を打っていた。しかしこんな私でも踊ってくれる気概のある諸兄はいるようで、幾度か誘いの文句が降ってきた。なんでも誘われた側はこれを受けるのが礼儀とされているらしい。馬鹿らしい作法もあったものだと思ったが、世間で波風を立てることに対し臆病になった私はそれを受け入れた。
女の身で戦場を渡り歩いただけあって、身のこなしには自信がある。とはいえ踊りの手順などは知らぬから、近隣の女子らを真似るだけで精一杯だ。すると動きは派手でないのに随分疲れた。教師という立場上いやでも注目を集めるのか、それとももっと単純に私を目当てで来てくれるのか、判然せぬが男子らも立て続けに誘ってくるからほとほと参った。いよいよ足を捌くのにも飽きてきて、化粧を整えてくるなどともっともらしい口実を付けて会場から抜け出した。
外へ出ると、中の熱気とまるで対照的な寒風に思わず身をすくめた。逃亡先にしたってもう少し安らぐ所が良い。そう思って首を巡らして辺りを見回すと、こちらへ向かってくる人影がある。はたしてそれはいつかの教師同士の論争で私の肩を持ってくれた老教師だった。
「随分冷えますな」
「ええ。むしろ私は身体が火照ったのを冷やしたいので外へ来ました」
「ならここは冷えすぎるから、あすこなんかは具合よくひんやりしていて良かろう」
そう言って老教師は向こうへ見える塔の一角を指し示した。学校の聖堂には幾つかの塔が併設されていた。なるほどただ徒に夜風に当たっていたままでは冷え通しだから、ああいう風をある程度凌げる所が都合がいいだろう。私は礼を言って去ろうとしたが、老教師がああそうだと思い出したように付け加えた。
「もし先客が二名ほどいたら、その方々の邪魔にはならないよう気を付けたまえ。馬に蹴られる危険がある故な」
何のことか分からない様子の私に、彼は片目を瞑って見せた。暗がりで私の疑問な顔が見えないのだろうか。聞き返す暇もなく踵を返す。ただそうして歩いていく中、彼の小さな呟きが耳に入った。
「もっとも、相手によってはむしろあなたが蹴る側なのかもしれないが……」
老教師はそのまますたすたと中へ入っていった。蹴る蹴らないとは何のことか。疑問に思ったけれども、冷たい風に身を震わした私はそれ以上頭を巡らす前に勧められた塔へ入った。
塔の中は人の気配も風の音もなく、水を打ったように静まり返っていた。先程まで居た場所とのあまりの差異に、軽く耳鳴りがするようだった。階段を登って上階へ向かうと、窓から差し込む薄青い月明かりに心を奪われた。ここなら静養するに事足りるだろう。窓を少し開けて風を取り込むと、冷涼な空気が頬を撫ぜた。
そうして静かな空気を吸っていると随分落ち着いた。やがて先刻の老教師の言葉が思い出される。馬に蹴られる、というと一般にそれは恋路の邪魔を咎めるための言い回しだが、私にはどうもぴんと来なかった。確かにここは他より随分物静かだから、逢瀬にはちょうどいいのかもしれない。しかしそれはこの塔に限って言える話でもなかった。広い校内ならここよりも景色の良い、ロマンチックな場所はいくらでもある。それをわざわざ忠告したということは、……私の頭の中に、いつか聞いた伝説が思い浮かんでいた。そういえばあの伝説は女神がどうのこうのとそれらしい謳い文句が付いていたはずだ。そして聖堂に建てられた塔にはそれぞれ固有の名前が付いていて、この塔の名は確か、……。
すると突然、屋上へ繋がる階段がいやに騒がしくなった。よくよく聞いてみるとどうやら男女の諍いらしかった。といっても喚いているのは女ばかりで、男の声はやけに静かでほとんど聞き取れなかった。その不均衡な感情のやり取りに、私は少し興味が湧いた。馬に蹴られるのは御免だったが、邪魔立てさえしなければ良かろうと思って聴き耳をそばだてた。
舞踏会と大仰に言っても、貴族の社交のそれと違い豪奢なドレスやタキシードに身を包むということもなかったから、特段目の保養になりはしなかった。むしろ普段よりおめかしに精を入れた生徒らが、普段と変わらぬ制服を着て舞い上がっている姿はいくらか滑稽でさえあった。
私は例によって踊りに興味などないから、振る舞われた料理に舌鼓を打っていた。しかしこんな私でも踊ってくれる気概のある諸兄はいるようで、幾度か誘いの文句が降ってきた。なんでも誘われた側はこれを受けるのが礼儀とされているらしい。馬鹿らしい作法もあったものだと思ったが、世間で波風を立てることに対し臆病になった私はそれを受け入れた。
女の身で戦場を渡り歩いただけあって、身のこなしには自信がある。とはいえ踊りの手順などは知らぬから、近隣の女子らを真似るだけで精一杯だ。すると動きは派手でないのに随分疲れた。教師という立場上いやでも注目を集めるのか、それとももっと単純に私を目当てで来てくれるのか、判然せぬが男子らも立て続けに誘ってくるからほとほと参った。いよいよ足を捌くのにも飽きてきて、化粧を整えてくるなどともっともらしい口実を付けて会場から抜け出した。
外へ出ると、中の熱気とまるで対照的な寒風に思わず身をすくめた。逃亡先にしたってもう少し安らぐ所が良い。そう思って首を巡らして辺りを見回すと、こちらへ向かってくる人影がある。はたしてそれはいつかの教師同士の論争で私の肩を持ってくれた老教師だった。
「随分冷えますな」
「ええ。むしろ私は身体が火照ったのを冷やしたいので外へ来ました」
「ならここは冷えすぎるから、あすこなんかは具合よくひんやりしていて良かろう」
そう言って老教師は向こうへ見える塔の一角を指し示した。学校の聖堂には幾つかの塔が併設されていた。なるほどただ徒に夜風に当たっていたままでは冷え通しだから、ああいう風をある程度凌げる所が都合がいいだろう。私は礼を言って去ろうとしたが、老教師がああそうだと思い出したように付け加えた。
「もし先客が二名ほどいたら、その方々の邪魔にはならないよう気を付けたまえ。馬に蹴られる危険がある故な」
何のことか分からない様子の私に、彼は片目を瞑って見せた。暗がりで私の疑問な顔が見えないのだろうか。聞き返す暇もなく踵を返す。ただそうして歩いていく中、彼の小さな呟きが耳に入った。
「もっとも、相手によってはむしろあなたが蹴る側なのかもしれないが……」
老教師はそのまますたすたと中へ入っていった。蹴る蹴らないとは何のことか。疑問に思ったけれども、冷たい風に身を震わした私はそれ以上頭を巡らす前に勧められた塔へ入った。
塔の中は人の気配も風の音もなく、水を打ったように静まり返っていた。先程まで居た場所とのあまりの差異に、軽く耳鳴りがするようだった。階段を登って上階へ向かうと、窓から差し込む薄青い月明かりに心を奪われた。ここなら静養するに事足りるだろう。窓を少し開けて風を取り込むと、冷涼な空気が頬を撫ぜた。
そうして静かな空気を吸っていると随分落ち着いた。やがて先刻の老教師の言葉が思い出される。馬に蹴られる、というと一般にそれは恋路の邪魔を咎めるための言い回しだが、私にはどうもぴんと来なかった。確かにここは他より随分物静かだから、逢瀬にはちょうどいいのかもしれない。しかしそれはこの塔に限って言える話でもなかった。広い校内ならここよりも景色の良い、ロマンチックな場所はいくらでもある。それをわざわざ忠告したということは、……私の頭の中に、いつか聞いた伝説が思い浮かんでいた。そういえばあの伝説は女神がどうのこうのとそれらしい謳い文句が付いていたはずだ。そして聖堂に建てられた塔にはそれぞれ固有の名前が付いていて、この塔の名は確か、……。
すると突然、屋上へ繋がる階段がいやに騒がしくなった。よくよく聞いてみるとどうやら男女の諍いらしかった。といっても喚いているのは女ばかりで、男の声はやけに静かでほとんど聞き取れなかった。その不均衡な感情のやり取りに、私は少し興味が湧いた。馬に蹴られるのは御免だったが、邪魔立てさえしなければ良かろうと思って聴き耳をそばだてた。