十一、

文字数 2,247文字

十一、
 塔の中は風こそ防いでくれるが、冷たい岩壁に囲まれているせいで決して暖かくはなかった。身を震わす私を見て、弟が外套を脱いでそれを羽織らせてくれた。私のものよりいくらか大きい布地からは、男らしい匂いと私と同じ種類の石鹸の、甘い匂いが同時に染みついていた。しかしつい先ほど肝の冷える思いをしたせいかそれでもなお寒かった。それで二人は自然と身を寄せ合った。弟の暖かな体温を感じて私の心は大いに安らいだ。
 二人で並んで窓から景色を眺めていると、不意に弟が私の顔を覗き込んだ。驚いて何か顔についているかさすってみるが、特段おかしな様子はない。そして弟が私の顔というより、瞳の方を見つめているのだと気づいた。
 私と同じ色をした瞳。男にしては幾分長い睫毛。すらりと整った目鼻立ちなどは姉の贔屓目を差し引いても美男と言える造形をしている。特に、固い意思を感じさせる双眸の色が私は何より好きだった。しばらくそうしていると急に気恥ずかしくなってきて、私はふいと元の方へ顔を背けた。弟もそれに倣って月を見上げる。
「なあ、姉さん」
 弟の声はそれまでより幾分か固く聞こえた。私にはそれが彼の緊張の印だとすぐにわかった。私はそれをほぐしてやる様に「なあに」と優しく返事をした。しかし切り出したはずの弟はなぜか答えるのを躊躇っている様子だった。
「女神の塔の伝説を知っているか」
 妙な話だ。知っているも何も、私がこの伝承を知ったのは弟との世間話が由来なのだ。不思議に思いながらも「もちろん」と言葉を返した。「どうも馬鹿らしい伝説の様に思えるけれど」と付け加えると、隣の気配が若干揺らいだように感じた。弟は「……だが、勝手に願う分には良いだろう」と反駁するように答えた。
 私は弟がどういう方向へ話を進展させたいか直感した。そしてその直感に私は少しく動揺した。喜ぶべきか悲しむべきか怒るべきか、まるで分らなかった。乾く唇を濡らして「何か願い事でもあるの」と訊くと、弟はそれに応えずこちらへ目を向けた。私はその瞳を見返すのが怖くなった。
「姉さん」と声がした。私の心臓は異様なまでに跳ね上がった。
 私はとうとう弟の方を見た。先ほどと同様、銀色の瞳がこちらを見ている。私は思わず息を呑んだ。そこに映る自分と、その自分が瞳に映す弟の姿まで見えるようだった。
 弟の口が開く。ああ、何を言うつもりなのだろう。どんな言葉を囁くつもりなのだろう。もしかするとそれは――その内容への恐れと期待に胸を圧迫させながら、弟の顔立ちをいつまでも眺めていた。
「どうして、あんなことをしたんだ」
 その言葉は私の予期していたものとは違った。私は安堵と失望を同時に感じて、またそうやって浮き沈みする自分の心中が恨めしく思った。
 あんなことというのは他でもない、私が弟へ向けて書かれた恋文を破いた事件である。私は少しばかり腹が立った。こちらに非があるとはいえ、わざわざ昔の話を蒸し返さなくたっていいじゃないか。被害者もいないし、できる限りの清算はしたのだから。もっとも発端である私が逆上するのは道理がおかしいと思ってすぐに矛を収めた。
 弟の方は至って真剣な面持ちをしている。ただ気になるだけ、という風には見えぬほど深刻な表情をしている。私はその熱意に当てられ、ようやくのようにあの日の感情を思い出してみた。思えば、私はどうしてあのようなヒステリックな行為に及んでしまったのだろうか。嫉妬の一言で片づけるにはあまりに異常なように思えた。弟の恋愛や人付き合いに、どうして姉が干渉する義理があろうか。確かにあの時の私は平常でなかったとはいえ、それを差し引いても異質な行動であった。少なくとも、弟に対し何かしらの感情を抱いていなければ思いつきもしない行いである。その感情の正体を探ろうとした私は、突然棘が刺さったような痛みに襲われた。心のどこかでそれ以上の詮索を止めろという声がしていた。私はそれ以上何も考えられなくなった。
 そうして私が応えないでいると、弟は突然私の肩を掴んで振り向かせ、その顔を正面から見据えた。私は大いに動揺した。穏当が服を着て歩いているような人柄の彼が、このような感情的な行動に出たことに何より驚いた。普段の隙だらけと言えないまでも多少は緩みのあった弟の雰囲気は、今や完全に張りつめていた。
「やっぱり、俺のことが好きなのか」
 そんなはずはない、とすぐには答えられなかった。そう発言する権利を持ち得ないことは、何より私自身が理解していた。弟に宛てられた恋文を破るなど、一介の姉風情が取るべき行為でないことは誰の目にも明らかだ。そんなことをしでかすのは、ひとえに彼自身であるか、彼の恋人か、あるいは彼に慕情を抱く者に他ならない。そういった推理に弟が辿りつくことは当然の帰結であった。ああいった真似をされれば、誰だって犯人は自分を好いているものと思う。しかし――
 私は精一杯の嗤いの表情を顔に取り繕い、答えた。
「馬鹿なことを言わないで。そんな訳ないじゃない。……だって、私たち……」
 しかし私はそれ以上の言葉を紡げなかった。想いという不確かなものを一切掻き消すように峻厳として聳え立つ一つの事実。それを口にすることができなかった。胸がひたすらつかえて息ができない。他に言葉が思い浮かばない。張り裂けそうな痛みに、身動き一つ取ることもできない。
 そうして身を凝固させていた私は、弟が差し伸べて来た指に伝う銀色を見てやっと、自分が涙していることを知った。
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