一、

文字数 1,994文字

一、
 ここに復職して何度目かの周年祭の季節になった。今年も浮かれた生徒や教師がいつもより多少派手なくらいの化粧を施して踊ったりするようだ。俺は酒と料理にしか興味がないから、大した感動も抱かずにそれを眺めていた。
 あれから何年になるか。すっかり生徒も教員も代替わりして、あの二人を覚えている者も少なくなった。いや、わざわざ覚えようとする者も居るまい。姉弟で駆け落ちした教師など、学校側からしても闇に葬りたい題材には違いない。二人ともできるだけ跡を濁さぬように色々手配してくれたようだから、最悪の印象でこそなかったが、それでも世間は近親者同士の恋愛に寛容ではない。自分と同じく、忌避感からくる忘却に身をやつすのが大方正当だろうと思った。
 思えばあいつらには大した事を教えてやれなかった。読み書きも計算も、頭の悪い俺は本当に初等な所しか教育できなかった。戦いも、この世情なら必須だろうと思って気は進まなかったが鍛えてやった。すると二人とも才能があるものだから、親としては随分と困った。あまり好戦的な気丈でないのだけは救いだった。
 だが俺は奴らに、肝心の心の在り方を教えてやれなかった。妻を失って自棄になった俺には愛というのが分からなくなった。そんな俺に頼らないで、自分らで見つけてくれればそれが最上だろうと思った。しかしそれもあの結果に終わってしまった。もっとも、あいつらにとっては失敗に感じていないかもしれない。人並みの幸せなんぞ初めから望んでいなかったあいつらが、例えあの結末を迎えなかったとて果たして真に幸せになれたか分からない。それならああして自ら幸福のために一大決心をしたのは成長と呼べなくもなかった。
 娘が熱を出した時、息子はそれをとても心配して、大事に思っているような顔をした。娘もそうしてくれる息子を心から愛しているような柔らかな表情をしていた。俺はそんな二人の様子を初めて目の当たりにした。乳母代わりの女中に介抱してもらっている時も、親戚の爺さんが死んだ時も、あんな顔はしなかった。近所のガキにいじめられても戦場で大怪我を負ってもちっとも泣かなかったあいつらが、互いが病床に臥せった時はあっさりと目元を赤くしやがる。そう思うとあいつらの人らしくなれるのは、やはり二人で居られる時だけだったんだろう。そんな周囲から受け入れがたい人間にしか育てられなかった自分が情けなくて仕方なかった。あの日の朝も、二人の逃避行を事前に知っていたはずの俺は結局大したこともしてやれなかった。口下手だから適当な言葉も見つからない。文章も上手くないから手紙なんぞも書けない。見舞いに使った余りの、季節外れの桃を贈るぐらいしかできなかった。だが、二人はそんな俺に約束をしてくれた。必ず幸せで居てくれると。だったら親として、できる事は済ませられたと言えるのだろうか。子供が自分の幸福を見つけ、それに向かって自分らの足で歩いていくのを見届けてやれたのなら、それで親としての責務は果たせたのだろうか。なあ、母さん……。
 しかし、もし何かが少しでも違っていれば、と思わずにはいられない。もし、という言葉は俺の口癖の一つだ。もし妻が死んでいなければ、もしあいつらが人並みの感情を持って生まれていれば、もし俺がもっとあいつらに寄り添ってやれていれば、……尽きぬ想像だと分かっちゃいるが、どうしても止められない。饗された酒では物足りず、懐のスキットルに手が伸びる。そうして中に水しか入っていないことを思い出してすぐに止めた。あの日から随分酒の量が増えたせいで、医者から止められたのだった。今ではこうして水を入れた酒瓶を携行してリハビリ染みた真似をしている。俺は嘆息を吐いた。まあ今日くらいはいいだろう。せっかくの周年祭に、辛気臭く断酒する人間なんぞ坊か尼さん以外に居ない。
 部屋に戻って秘蔵にしていた酒をコップに注ぎ、一息に呷った。熱い塊が喉元を過ぎるころには、意識がふわふわと浮いたようになる。胸に残った後悔だの不安だのが少しずつ薄れていく。やはりものを忘れたい時にはこれに限る。もっとも、そんなだから医者に窘められるのだが……。
 幾度かそうして杯を口に運んでいると、机の上に手紙が放置されてあるのを見つけた。仕事の書簡でないから後で見ればよかろうと思って放っていたのだろう。手に取って眺めてみる。差出人が書いていないが、どうも恋文の様な浮付いた内容でないことは武骨な灰色の外装から察せられた。しかしそれにしては随分甘い匂いがするので不思議に思った。それもわざわざ香水を付けたというより、家屋や調度品の匂いが染みつき自然そうなったという風に漂ってくるのだった。封を開けて読んでみる。そうする内に俺は、さっきまで飲み明かしていた酒がどんどん抜けていくのを感じた。酒からくるものでない震えがわなわなと手を揺らしていた。
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