第4話:一次オイルショックで太陽熱温水器人気2

文字数 1,159文字

 そして、リース契約では5年過ぎるとお客さんからいただくリース料金のほとんどが会社の利益になるので急激に利益が上がり、近場で依頼される仕事を受けなくなった。もちろん山倉光男には営業車が与えられ、出張、営業手当、教育指導手当を入れると年収が8百万円を超えた。その後、会社、学校の寮への太陽熱温水器の設置が増えて工事の職員を育て上げるのに大変な位、繁盛しまくった。そこで、1976年に甲州太陽熱サービス株式会社と言う名前でセールス専門会社を従業80人で立ち上げた。

 本州一円で晴天日数の多い県を調べ上げて、出張で回った。その頃、2千万円、山倉光男が小淵沢に中古の家を購入し近くに大滝湧水が出ていて飲料水を運び、釜無川から水を引き太陽熱温水器を使う生活を始めた。庭に大きなロケットストーブを作り調理場として使得るようにして、そのロケットストーブを煙突をリビングルームの中を通す様にして煙突を作り暖房としても使える様にした。1976年12月9日に奥さんの咲子さんに子供が出来て出産予定日が1977年6月5日を言われた。

 そして忙しくなるので実家に帰って出産してもらった。その後も忙しく全国を飛び回り営業活動や営業マンのサポートの日々が続いた。その後、1977年6月5日に男の子、大きな夢を持ってもらいたいと大志、山倉大志と命名した。そうして1977年9月5日に奥さんの咲子さんが小淵沢に帰って来た。その頃、山倉光男は多忙を極めてげっそり痩せてしまった。その話を山倉咲子さんが佐藤一朗、加藤勝社長に訴えると、確かに営業活動を全部、山倉光男君にお願いしていたので、悪いことをしたと良い、休んで病院で精密検査をする様に言われ、山梨県立中央病院に入院して精密検査を受けた結果、極度の疲労と判明し、もう少しで手遅れになるとこだったと言われた。

 3ケ月の休暇が必要と言われ、年内、休暇とって下さいと言われて、最初は小淵沢の自宅で寝てばかりの生活を3週間、その後、近くの温泉で療養して12月には顔色も良くなり、12月12日、再度、精密検査を受けると回復が見られたので今後は無理しないでと言われ、1978年1月7日から会社に復帰し、甲府の本社に部長室を作り、電話で指示して仕事をするようにと言われて営業管理を中心に仕事を再開し山倉光男が営業管理部長で鮫島伸一君を営業部長にする人事を発表した。

その後は内勤業務が中心となり通勤も中央線で通うようになった。その後、営業マンの育成に注力して入社した若手を実際の営業の場面を再現して話に興味を持たせる話法と情報の説明、どんなメリットがあるかの説明、相手の性格、強み、弱みを見抜いて落とす方法などを懇切丁寧に説明した。そして1978年にも30人の新人を教育し送り出して、営業部員が120人にまで増えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み