第3話:一次オイルショックで太陽熱温水器人気1

文字数 1,148文字

 しかし、このオイルショックによる石油の高騰、省エネルギー運動の高まりが佐藤工務店と加藤機械に、とっては追い風になり電話の応対に困るほど太陽熱温水器が注目を浴び愛知県が生産が間に合わなくて大手コロナなど暖房機機械メーカー外注する騒ぎになった。その後は1974年は上半期で1800台中もがあったら、全部納入できたのが10月であり、10月末時点での受注残が千台を超えた。最終的に1973年末の受注残が1500台となり太陽熱温水器の市場に京セラ、コロナ、ノーリツ、長府製作所が参入して来たので各社と交渉して百台単位で購入で6掛けで買い取りリースする事になった。

 それにより、受注残が解消にして、営業部員を増やして新潟、富山、静岡、愛知、関東一円を営業して歩くことになり。営業部員を30人して出張で営業活動をしていった。1973年の第一次石油危機が日本にもたらしたものは原油価格の高騰という厳しい現実。国内に資源を持たない日本は、国家レベルではもちろん一般市民レベルにおいてもエネルギーの問題を実感し省エネルギーの必要性が声高に叫ばれる様になった。更に原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道を始めとする公共交通機関を再評価する動きが出た。

 また、戦後世界経済の成長体制は破壊された。工業化による投資で対外債務を膨張させていた南アメリカやアフリカなどの開発途上国は石油輸入コストの急上昇によりユーロ債・シンジケートローンの変動利付き債への借換を余儀なくされた。日本政府もエネルギー問題の対策に乗り出し、当時の通産省は省エネルギーの推進や石油の代替エネルギー開発を進めることを盛り込んだ「サンシャイン計画」を1974年に策定し2000年までの長期的戦略が立てられた。サンシャイン計画ではクリーンな次世代エネルギーとして太陽エネルギーの利用が推進されていますが、当時はまだ太陽エネルギーのうち太陽熱の利用が主で太陽光発電はまだまだコストの高いエネルギーでした。

 そこでサンシャイン計画では多結晶シリコン型という当時の主流だった太陽電池のコストダウンが目標とされた。この計画は後に順調に進展し低コストで大量生産が可能なアモルファスシリコン太陽電池の技術開発が進められた。そうして1974年が終了し1975年を迎えた。1975年に幼なじみの山手咲子と山倉光男が結婚する事を山手酒蔵の社長がやっと承諾してくれ、1975年6月6日、甲府の結婚式場で結婚式を挙げた。しかし仕事が忙しく、新婚旅行はお預けとなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み