第2話:太陽熱温水器とオイルショック2

文字数 1,260文字

 その後、大月、山梨、甲州、富士吉田、韮崎、北杜まで営業活動として回り、翌年には長野県まで営業範囲を広げていった。1969年には山倉が営業課長となり車に4人が乗って長野県での営業を積極的に進めた。そして1969年3月には、長野県内も合わせて100件の太陽熱温水器販売が達成された。もう1人甲府工業高校卒業した鮫島伸一が静岡県を開拓することになり会社から車を借りて4人でチームになって営業活動に1969年、年末に累計200件のリースに成功した。

 やがて1970年があけ、更に営業先を広げて長野県を2台、8人で回り、山梨を1台4人で回る事にして、1970年上半期で新規200件、累計400件、年末には600件、累計800件まで増えた。そして1971年に山倉光男が営業部長になり営業管理と営業部員の採用、教育を一手にやるようになり営業部員の人数が20人となった。そうして着実に太陽熱温水器の名前が浸透していき、1971年は上半期300件、年間600件、累計1400件となった。

 1972年も年間で800件を新規に開拓して累計2200件となった。1973年も順調に進み9月末で単年度千件となった。その後1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に石油輸出国機構加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。10月17日にはアラブ石油輸出国機構が原油生産の段階的削減・石油戦略を決定した。

 またアラブ石油輸出国機構諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国・アメリカ合衆国やオランダなどへの経済制裁・石油禁輸を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定した。日本では、1972年6月11日に、田中角栄が発表した政策綱領、列島改造論が発表され、列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機により相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなった。

 日本の消費者物価指数で1974年は23%上昇し「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果、1974年はマイナス1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し高度経済成長がここに終焉を迎えた。そのために、石油の消費を抑える、いわゆる、省エネルギー元年となり、デパートのエスカレーター運転中止。ネオンサインの早期消灯。ガソリンスタンドの日曜日休業。鉄道事業者における最終列車の繰り上げなどの処置。日本の地下鉄事業者が駅の照明を間引き。プロ野球のナイターの開始時間の繰り上げ、テレビ深夜放送の休止。特にNHKは教育、総合両方ともに23時以降の放送を休止などの対策が取られた。
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