第6話:ソーラーシステム普及へ結集

文字数 1,477文字

 1980年から日本ではソーラーシステム普及促進融資制度が開始された。二度にわたる石油危機は日本経済に大きな打撃を与えたのと同時に、石油に頼ることなく、日本国内で入手が可能なエネルギーを開発する気運が高まることとなりました。その気運はサンシャイン計画という国の具体的な長期計画により実行に移されます。太陽光エネルギーの開発や利用促進を進めるための組織として日本太陽エネルギー学会やソーラーシステム振興協会。そして1980年には現在でも新エネルギー開発の中心的な役割を担っているNEDO「新エネルギー総合開発機構」が創設された。

 これらの組織が出揃うことにより、官・学・産の三者が一体となった太陽光エネルギー開発体制が整った。この計画は後述のニューサンシャイン計画に引き継がれ、その後の大きな成果につながることになった。太陽光エネルギーの研究開発体制を整える一方で、太陽光エネルギーの利用を促進するために「ソーラーシステム普及促進融資制度」1980年に設けられた。 個人が住宅にソーラーシステムを設置する際の費用を利子補給の形で低利融資する支援制度で、16年間の継続期間に累計27万4千件もの融資件数を誇り、ソーラーシステム普及に大きな役割を果たした。

 1980年代の別荘ブームに乗り伊豆高原、箱根、冨士山麓に多くの別荘が作られ、そこに太陽熱温水器付きマンション、ソーラー暖房設備付きの先進的な装置のついた別荘も販売された。伊豆というと温暖と考えがちだが、伊豆高原は標高が高く、海風が強く、冬は寒い、しかし日射しが強いので太陽熱温水器やソーラー暖房にはうってつけだった。その仕事で加藤工業の従業員寮を熱海と伊東の間の伊豆高原に作り、伊豆半島全域と冨士山麓、箱根までを担当エリアとして20人を常駐させて忙しく飛び回っていた。さらに、こういう特別オプションは高級別荘や大企業の保養所に作られるため金払いも良く、金銭的なトラブルはほとんどなかった。そして作った別荘の写真、設備の説明を書いてパンフレットをつくり大々的に宣伝したために多くの仕事が舞い込んだ。そして伊豆の真ん中に社員を24時間体制で待機してあったのでアフターケアも万全だった。

 そして一番の強みは多くの太陽熱温水器メーカー、ソーラー暖房メーカーの大量一括購入で定期の4割引で購入店にあった。1983年には山倉光男が現場復帰して大きな商談に参加して今迄の豊富な知識で提案式の営業で多くの顧客を掴んだ。そして1週間単位の仕事で、1ケ月の売り3週間働き1週間休みの仕事で身体に無理が来ないように配慮した。そして1984年に営業成績の業績表彰と共に、加藤工業、ソーラー技術営業部・営業部長の兼任で取締役の肩書きとなり年収が1千万円+業績ボーナスという契約なった。そしてこの時期は業績が良くて業績ボーナスが平均4百万円出るほどの好景気だった。

 そして実はもう一つ、ソーラー暖房には秘密があり、それは原油が高くなればソーラー暖房のソーラーの部分が注目されて利点を宣伝し原油が安くなれば軽油ボイラーを使いながら現実には灯油を使っていたので税金が低くこの点で安さを宣伝でき原油の上昇、下落に、ほぼ影響を受けない万全の体制だった。そのために、この設備のついた別荘、企業の保養場、社宅、学生寮で手軽につけられる値段とランニングコストを考えれば各部屋の暖房設備よりも格段にランニングコストが安く済む利点が大きかった。その利点をわかりやすくパンフレットに書き込み問題になりそうな文言は営業の交渉の時に宣伝の時にのみ使った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み