第6話

文字数 767文字

猛々しいほどの男らしさや野心といったものはまるでなかったが、大らかであらゆるものを許容する寛大さと、偽りのない誠実さは、夏葉の中で揺るぎのない安心感になっていた。

まだ夫婦の間に子どもがいないことを差し引けば、自分たちは、どこからも、誰からもケチをつけられるような家族ではないはずだ。

だいたい、どんなに幸せそうに見える場所にだって、少なからず傷や汚れはある。

だからこれでいい。これで十分だ。自分はこれで十分幸せなのだから。
言い聞かせるように頬を引き上げて、夏葉は、夫より先に部屋を出た。






二〇一九年 七月二十二日

 身体中を巡る血管のそこかしこが寸断されたような痛みと、押し潰されるような息苦しさを抱いて、彼女はバスルームに蹲った。

腫れた目蓋のせいか、視界が狭く見え難い。
それに、靄がかかったようにふんわりと白んでいる。

ああそうか、もうすぐ意識が無くなるせいかと気付いて、彼女は低い天井を見上げた。


十年前、同じ痛みを抱きながら見上げた夜空を思い出す。

やっぱり、あの時死んでおけばよかったと、滲み出す後悔を飲み込みながら、ふと自分が泣いていることに気付いた。

何のための涙だろう。
余分に生きた十年分の苦しみだろうか。

あんな男に殺されなければならなかった自分への同情だろうか。
それとも…………。


唇を噛んで、込み上げる慟哭を噛み千切った。
自分が泣いている正体など、どうだっていい。

そんなものを探ればきっと、自分はもっと傷むだけだ。
吸い込む空気が数分前より重くなったように感じた。

そのせいか、思うように気道に入っていかない。
ついに死がこの身体を覆うのかと覚悟して、左腕に走る血の筋に目をやった。

皮肉だ。
憎しみも愛も、同じ名前だなんて。

涙に濡れた頬が、思わず崩れた。
それでも、これがきっと自分が生きた、そして死んでいく唯一の証拠になるのだろうと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み